宮坂宥勝氏の「空海・死の喜び 密教への入り方」を読んだ。「死の喜び」とはギョッとさせるようなタイトルではないか。著者の宮坂氏(1921-2011)は、仏教学者であり僧侶である。
この本の第三章「はるかな心の旅路」は、著者の人生行路を振り返るものであり、「学問と信仰の狭間で」という小見出しで始まる節で次のように述懐している。「僧侶としては大日如来に帰依し、学者としては帰依している対象を客観的に腑分けするのである。こんな矛盾はない。理性と情念。この二つを私は日常的に操らねばならないのである。だが、自分の精神活動を巧みに切り換えられるような便利なスイッチを、私は持ち合わせていない。私の生活はこの二つのものに切り裂かれることになったのである」(p154)
しかし「矛盾した多元性を内包」して生きていくあり方は、何ら悪いことではない。矛盾に基づく悩みを抱えながら生きることは、本人としては大変ではあるだろうが、そこには大きな跳躍のチャンスがあり、人格的な深さを得るチャンスに恵まれるとも言える。ぼくはそのように考える。宮坂氏も「実はそのような発想、生き方そのものが密教的」なのだと言う。
宮坂氏にとってはインドでの体験が大きな意味を持っているようである。ガンジス河のほとりでは、いたるところで、死んだ人の遺骸が無造作に荼毘にふされ、その灰が河に撒かれる。その光景に宮坂氏はショックを受ける。それ以上に、ショックを受けたのは、そうやって遺骸の焼かれる河岸に座り込んでいる多くの人々の存在である。この人たちが何をしているのかと言えば、ただ「死を待っている」(p186)のだという。その人たちは、あっけらかんとしており、死を恐れず、むしろ待ち望み、「そこには喜びが漂っていた」(p198)と宮坂氏は言う。
ガンジス河の岸にたむろする人々と、私たちとでは、死の文化が違うのだ。私たちの社会は死を忌避し極力目をそらそうとするが、ガンジス河で出会った人々は「死と正面から向き合う文化を空気のように自然に取り込み、血肉化している」(p199)。
密教の曼荼羅の世界では人間生命を宇宙生命から派生したものと捉える。そして死を迎えるということは、「宇宙生命に帰還するという」「壮大な宇宙的ドラマ」なのだ。そう自覚すれば「死は忌まわしいもの、厭うべきものどころではなく、限りなく静謐な喜び-法悦-となるべきもの」(p200)となるであろうと、宮坂氏は言う。自我に執着し、その視点に囚われて考えるのであれば、死は厭わしいものとなる。しかし、その執着を脱して、宇宙生命の視点に立って、ふたたびこの本の「死の喜び」というタイトルを見れば、確かに納得できる。
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