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法規範は定言命令か仮言命令か

青井秀夫氏の「法理学概説」(有斐閣)を読んだ。

法規範は、要件・効果という構造を基本としているが、果たしてカント倫理学における仮言命令と定言命令の区分に従えば、いずれといえるのか。法規範は、「一定の条件の下では」「一定の例外的状況がない限りは」という「状況拘束性の下で」つきつけられる条件付命令であるが、条件付きということを捉えて、浅はかながら、これまでは仮言命令なのかと思い込んでいた。しかし、どうやら、違うらしい。

著者によれば、仮言命令と、定言命令の違いは、「目的・手段の関係づけが入る・入らないの相違にかかっている」といい、それぞれを次のように定義する。

●仮言命令
命令が、目的の選択を相手方に任せつつ、ある一定の目的の選択を仮に前提とすれば、目的達成の手段としていかなる行為がなされなければならないかを指図する場合

●定言命令
命令が、相手方による目的の選択への関係づけを何ら前提とすることなく、ある行為をそれ自体として眺めて客観的になされなければならないと指図する場合

著者によれば、「法は、カントにおける道徳の命令のように、自ら目的を決定し、決定した目的の望ましさを断固無条件に要求する」ので、定言命令であると解せざるをえないという。法がAという目的を決定しているのに、「個人が自由意思によってアンチAという目的を選択することは、法により断固非難される」。この考えは、強行法規を想定した議論であって、著者も言う通り、民法などの任意法規などは、むしろ仮言命令といえるだろう。

ただ、不法行為規定のような強行法規であっても、仮言命令であるとする説があるらしい。この説によれば、「法としては」、不法行為の規定の効果を「望む・望まないはいずれでもよく、どちらを選ぶかは個人の意思に委ねている」と考える。刑法の殺人罪を例にとれば、「刑罰さえ甘受すれば殺人をしてもよく、殺人をするかどうかは、個人の自由選択に任された問題である」と考えることになりそうである。しかし、刑罰を甘受すれば殺人を犯してもいいという考えではなく、「断固として殺人を禁じ」るというのが、法の態度であろうと、著者は批判する。(以上、p345~350)

詩の読みについて

大岡信氏の「詩とことば」(花神社)を読んだ。日本の詩歌にとって大岡信氏は、本当に大きな存在で、その視野の広さと理解の深さは、当代では他に例をみない。 詩歌という 表現ジャンル は、ともすると享受者によって捉え方が大きく異なり得るものであるが、大岡氏の批評は、その不定形な混沌に確固とした一定の妥当な理解の土俵を生み出した。氏の逝去による喪失の大きさは計り知れない。

その大岡氏が詩のことばは、不可避的に「場合によって非常に違う読み方をされることもある」(p20)と言う。その理由を述べるに際して、大岡氏はドイツロマン派を代表する詩人であるノヴァーリスの残した断章から、「すべての見えるものは見えないものに、聞こえるものは聞こえないものに、感じられるものは感じられないものに付着している。おそらく、考えられるものは考えられないものに付着しているのだろう」ということばを引用する。

大岡氏によれば、ノヴァーリスのこのことばは、「そのまま詩のことばについて言ったものとして敷衍することができる」という。この断章のことばに言寄せて、大岡氏は詩をつくるという営みについて次のように語る。

詩は「見えないもの、聞こえないもの、感じられないもの、考えられないものに触っているのではないか」「言ってみれば、そうやって見えないもの、聞こえないもの、感じられないもの、考えられないものを、向こう側にむけてどこまでおし拡げうるかということが詩人ひとりひとりのやっていること」であり、「押し拡げれば押し拡げるほど、触れえないもの、聞こえないものの領域がさらに拡が」り、「そこが不思議なところ」である(p21)。

ぼく自身、詩を書くものとして大岡氏のことばに触れ、非常にうまい、適切な言い方だと思う。ぼくなりの言い方で言えば、詩においては、書かれた言葉と同様に、あるいはそれ以上に、書かれなかったことが重要である。ぼくの言う「書かれなかったこと」というのが、正に大岡氏やノヴァーリスの言うところの「 見えないもの、聞こえないもの、感じられないもの、考えられないもの 」である。それはどこに宿るのかといえば、詩のことばが刻まれた詩集の紙面に即し、あえて可視化していうならば、詩集の紙面の余白である、と言ってもいいだろう。なぜ詩集にはあんなに余白があるのか、なんと紙を無駄にすることか、という印象を抱く人も、あるいはいるかもしれないが、余白は無駄なのではない。ありていに言えば、そこには、書かれなかったことが暗示されているのであり、詩人がことばを書くことで、書かれていない「向こう側にむけて」「押し拡げ」たものを読者は想像力によって味わうことになる。余白を読むことにこそ詩を読むことの醍醐味がある。

大岡氏はさらに次のように述べる。「詩作品というものは、それが触っていることがはっきり伝わる部分と、よくわからないけれど何か不思議なものに触っていることだけは感じられる、その向こう側の領域とのあわいに、スッと置かれている非常に不安定な創造物という気がするんです。」(p21)

「スッと置かれている非常に不安定な創造物」という表現。なんと繊細な。詩作品はそういうものなので、だからこそ「作者は一所懸命ことばを彫琢しているんですが、読み手によって違う読み方をされる可能性があるのは当然ということにもなる」(p21)と大岡氏は言う。

それでは、「読み手によって違う読み方をされる可能性がある」ということは、詩にとってよいことなのか、そうではないのか。大岡氏は、 ある論者の 山村慕鳥の短詩に対する評論を例に挙げ、その読みについて「やはり違うんじゃないかと思うんです」(p25)と述べ、解釈に幅はあるにしても、妥当な解釈とそうでないものがやはり分けられ、後者は排除されるべきという立場であるように思う。それは正論であって、ある詩作品の鑑賞・解釈の在り方という点でいえば、ぼくも全く異論はない。最初にも述べたように、詩歌の鑑賞や解釈における「 不定形な混沌に確固とした一定の妥当な理解の土俵を生み出した 」のが大岡氏の業績であり、その功績は計り知れない。

しかし、その一方で、あえて誤読の有する意義や可能性について触れておきたい。明らかな誤読も根絶されるべき悪というわけではなく、誤読にも意味があるとぼくは思う。他者の作品に触発されて新たな作品を生み出すという、創作という局面では、むしろ読み違えや誤読が意味を持つことも少なくない。だから誤読を排斥するのではなく、むしろ誤読する自由がぼくらにはあり、誤読の自由こそが創作の母であると言い切ってみたい誘惑にかられる。

ジャズCDのコレクション法

ぼくは、専らロックミュージックを聴きながら過ごして来た。それは他ジャンルの音楽に対しては非寛容で聴く耳を持たなかった、ということでもある。50歳を超えた現在も、ロックミュージックはよく聴くが、同時にこれまで聴こうともしなかった他ジャンルにも触手を伸ばすようになっている。これは、ぼく自身にとっては大きな変化である。年齢を重ねると、実は感性は豊かになるのかもしれないと密かに思ってみたりしている。

そうしたこともあって最近はジャズである。オリジナルアルバムの5枚セットといった廉価版CDもかなり出回っているのでありがたい。ジャズは、歴史もあり奥が深いが、どのように音源コレクションを形成していけばいいのか。中山康樹氏の「超ジャズ入門」(集英社新書)はその問いに答えてくれる。

ジャズCDのコレクション法について、中山氏は次のように言う。「ジャズは100人のミュージシャンの100枚を聴くより、ひとりのミュージシャン(あるいはレーベル)の100枚を聴くべきです。」(p220)

ずいぶん変わったことを言うな、というのが率直な感想だが、中山氏が薦めるミュージシャンはマイルス・デイビスであり、レーベルはブルーノートである。本書で、中山氏は自説の根拠・理由について説明しており、「あ、なるほど」と僕などは説得されてしまった。ジャズに対する愛の詰まった一冊。