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「物語は統計データに勝る」

ジョン・マエダ+ベッキー・バーモント「リーダーシップをデザインする」を読んだ。

ジョン・マエダ氏は米国の著名芸術大学RISDの学長を務める多才な人物で、「シンプリシティの法則」の著者でもある。その彼が、自らのノウハウを述べた一冊。「割り切った仕事ならたやすいが、思い入れるとぐっと難しくなる」「洗練は目に見える繊細な技法である」「正しくあるより、正しいことをするほうが大事」など印象的な寸言を掲げながら、それを解説する文章を加えた構成。

データが重視される時代にあって、アーティストでもあるジョン・マエダ氏は、むしろ直感こそが大事だという(p32)。データはそれだけでは、「人を行動を駆り立てる感情を呼び起こすことはめったにない」。そして彼は、ダボス会議で出会ったザイナル・サルビという女性による「物語は統計データに勝る」というコメントを紹介して、次のように述べる。「複雑な数値を伝えるより、なぜその数値を伝えたいのかという理由を訴えるほうがずっと重要ということだ。良い物語を語るのは数量的なスキルではない。それは、聴衆がなにを聞きたがっているのか、説得力のある形でどう伝えればいいのかを直感的に捉えるスキルだ」。彼によれば、アーティストとは、「文章や絵、ダンス、音楽その他さまざまな手法を駆使するストーリーテラーとして、独特の才能を持っている」存在である(p33)。

小著ではあるが、ジョン・マエダ氏が自らの経験を通じて獲得した実践知とでもいうべきものが、集約されており、参考となる。

損得の計算

藤田精一「損得計算入門」を読んだ。

私たちは日常、損得勘定をすることがあるが、翻って損得の判断とはどのようなものなのか?場合によっては損得を考えようとして、誤った判断をしている場合もあるだろう。この本は、損得判断について、具体例を交えながら、わかりやすく説いた本である。

同書の最初の方に、「損得判断の基本原則」が掲げられており、少し紹介させていただく。2つの原則が挙げられているが、第1原則は「比較の対象を明確にする」というものだ。損得判断とは、何よりも比較による判断なのだ。「美しい、忙しい、高い、早い、」「など、どのような形容詞でも、それらの用語を使うときには比較の対象を明確にすることが必要です。正確には「何と比べてこうなのだ」と言わなければいけないのです」(p19)。

そして次に大切なのは、「違いを調べ」「違いを比べること」となる。第2原則はそのことを表現したものであり、引用させていただくと次のようになる。「比較の対象の間で、お金の流れに着目して収益の違いと費用の違いをそれぞれ総額でとらえる。そのとき利益の違いは収益の違いと費用の違いの差で表される。つまり利益の違いは次式で与えられる。利益の違い=収益の違い-費用の違い」

また会計における思考法と損益判断の思考法の違いについても触れられ、会計思考が「現在の位置に立って過去を見渡」(p35)すのに対して、損益思考は「過去には目をつむり、これから先の将来を見越して収益と費用を捉える」(p36)未来志向の思考なのだという。

この本では、さらに割勘思考との考え方の違いや、埋没費用・機会費用とは何か、意思決定の選択肢に関する排反案・独立案の違いなどについて解説が為されている。誤った損得判断で間違った意思決定をなさないために、この本の効用はきわめて大きい。

マルティン・ブラウエン「図説 曼荼羅大全 チベット仏教の神秘」(東洋書林)を読んだ。この本の中に「空」についての記述があったので、紹介させていただく。

「空」というと、何も実在がないこと、即ち「無」を意味すると考えてしまいがちであるが、そうではない。 「空」とは実在なのである。この本では、「空」の実在性を解説するために中観帰謬論証派における空性の定義を紹介している。該当箇所の記述を僕なりに敷衍して言えば次のようになる。中観帰謬論証派は、我々が普段認識している現象について「それ自身の本来的あるいは客観的な存在を有しない」(p36)とするが、それは現象を非実在として捉えるわけではない。現象を現象として認識するためには前提として視点が必要となるが、その視点の核となるべき「我」が存在しないというのが中観帰謬論証派の見解である。私たちが認識しているような現象は、存在しないが、決して無というわけではなく、そこには確かに何かが存在しているのである。その存在を「空」というのである。

「あらゆる仏教の宗派は無我という考え方では一致している」(p34)。西洋ではデカルトのコギトに代表されるように、自我を基礎として思考を展開するが、仏教では、それは実体のないものであり、色、受、想、行、識の五蘊が「相互に関係しつつ結びついて」(p34)生じているにすぎないと考える。我々は、往々にして自我が存在すると考え、その自我に囚われてしまうわけだが、仏教は、その「とらわれからの解脱」、即ち無自性の境地を目指す。 その境地に到達するための道(乗、ヤーナ)」には、「スートラすなわち波羅蜜乗(完成の道)とタントラすなわち真言乗(神秘的な言葉の道)の二つがある」という(p34)。

私たちは普段、ものを認識するが、それは「意識による差異化や分析」(p37)の結果である。差異化と分析によって「空なるものに対して内容と意味を与え」(p37)ているのであるが、無自性の境地を目指す道とは、意識による「実在の秩序化、差異化、構築(見立て)のプロセスを逆転させ」、「すべての現象の空性をはっきりと理解することを意味する」(p37)のである。

たった4ページほどのなかに大変に中身の濃いことが書かれている。この本にはチベット仏教における曼荼羅について様々な解説が為されており、大変に興味深いが、僕が特に関心を持ったのは、人間もまたそれ自体マンダラなのだという考え方である。「宇宙であるマンダラと、人体との間に」「構造的な対応関係や平行関係」があるという。その理論を展開した「カーラチャクラ・タントラ」(時間の輪のタントラ)は、「外」「内」「他」という、「相互に関係しあう三つのレベル」を説くというが、そのうちの「内」こそが人間であり、それは「外」即ち宇宙(=元素の輪、須弥山、虚空そして時間のリズムを備えた宇宙(p90))と「きわめて多くの点で一致している」という。ミクロコスモスとしての人間とでも言うべきか。