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土地から受ける力

稲葉真弓「選詩集 さようなら は、やめときましょう」(響文社)を読んだ。

京都の本屋に置かれていた一冊を何気なくとって、開いたページに連なる活字に導かれるようにして購入した。著者の稲葉真弓氏については、寡聞にして知らなかった。ただ書店で少し立ち読みしてみて、大変に言葉に力のある詩人であり、変にアクロバティックな詩的実験にも走らず、読めばきちんと得るものがある詩集であることが伺えたので、迷わずに購入した。

残念ながら著者の稲葉氏は既に物故されており、生前の5冊の詩集から選ばれた作品が集められている。僕が特に心を惹かれたのは、「連作・志摩 ひかりの旅」という詩集からの作品群。

「ほんとうに生きたのは/たった一日だったかもしれない」という、印象的なフレーズで始まる「金色の午後のこと」。だらしなく怠惰な午睡の想い出は誰にでもあるが、例えば、命の終わりが近づいたとき、その午睡の、のんきな贅沢さを思い返すとき、確かに稲葉さんのように、僕も思うに違いない。詩を読んで得る共感は、いつでも深い。

また、さすが小説で数々の受賞をされていた方だけあって、言葉による描写力が素晴らしい。事実を描くだけではなく、想像力に触れてきたものまできちんと描写し尽くす力。例えば、セイタカアワダチソウの舳先から飛び立った小鳥の描写。「もうノビキタはいないのに/そこにありありと/一羽の鳥の形をしたものが刻まれて/飛翔はほどけた糸のちらばりのようだった」(「渡りのものへ」より)。

僕の場合、よい詩作品を読んだあとは、得も言われぬ内的感覚のひろがり(文学空間とでもいうべきか)にひたされる。その内的感覚をポエジーといってもいいのだが、この作品群ではその感覚のひろがりが顕著であった。おそらく著者が住むことを選んだ志摩半島という土地のアトマスフェアが詩の言葉によって捉えられているからだろう。読者である私は、知らず知らずのうちに、志摩半島に想像的な空間移動を果たしているのだ。詩人は、土地から受けた力を得ながら言葉を紡ぐとき、もっとも力のある言葉を開示できるのかもしれない。

パトス

中畑正志「魂の変容 心的概念の歴史的考察」(岩波書店)を読んだ。

感情を表す語に「パトス」がある。僕の場合、パトスという語に出会ったのは、パトスとロゴスの関係について探求した哲学者、三木清の著書を通じてであった。これはギリシア語であるが、この言葉が明確に「感情という意味を獲得」したのは、アリストテレス以後のことだという。一つの言葉にも歴史がある。この本は、パトス、サブジェクト、志向性などの心的概念の歴史を探求した本であり、とても興味深い。

さてパトスであるが、ストア派においては、これが感情を示す概念として確実に成立していたという。ストア派は、パトスを「理性(ロゴス)あるいは自然本性に反した魂の動きであり、過剰な衝動」(p102)と考えた。ストア派以前では、アリストテレスが「弁論術」においてパトスを感情を示す語句として使われた箇所があるという。「もろもろのパトスとは、それが原因で人々の気持ちが変わり、判断の上に差異をもたらすようになるもので、それには苦痛や快楽がつきまとっている。たとえば、怒り、憐み、恐れ、その他この種のもの、および、これらとは反対のものがそうである。」

元来、「パトス」とは、「「はたらきや作用を受けること」を原義とする動詞「パスケイン」から派生した」語であり、「作用を受けること」「作用の受容によって成立した状態」を意味していた(p105)。「感情を<パトス>すなわち受動状態として理解」したアリストテレスの把握は、現代感情論の源流とも言えるものである。そこにおいては、「感情は「内的感覚」ではなく、知覚や思考と並んで、世界のあり方をある仕方で受容する形式」(p106)として捉えられている。

さらに山田氏は、アリストテレス以前であるプラトンの著作にも、感情の概念化の萌芽を読み解く。プラトンの「ピレボス」において、ギリシアの「悲劇喜劇の観客の心的経験」に基づき、怒り、憧れ、悲嘆、恐れ等の「われわれが感情に分類する事象が」、「快苦の混合されたもの」と分析されており、これはアリストテレスの「弁論術」における感情論を接続関係が見られるという(p108)。さらに山田氏は、プラトンの「国家」における有名な「詩人追放論」での議論を取り上げる。「詩人たちは、ミーメーシスの語りの様式を通じて、人間のきわめて多種多様な心理と行動を濾過し一定の形へと収斂させ」るが、「聴衆の魂に影響を与えるのは、そのようにして一定の様式のなかで収斂された人間の心理と行動」である。「ホメロスが、ギリシア人を教育してきた」という言葉があるが、「詩的ミーメーシスによって模倣・再現された人物の「パトスをともに経験」することを通じて」ギリシア人の非理知的なこころのはたらきは、強化されてきたのである(p118)。

山田氏はこのようにプラトンまで遡ることで、「感情というカテゴリーが」、詩作品における「語りの様式とヴィジョンという生に対する一つの見方と密接に関係すること」を示唆する。さらに感情と関係する語りの様式とヴィジョンが、「一つの見方」にすぎず、現存する「感情という概念そのもの」を「批判的に吟味すること」(p120)が可能であることまで指し示す。

自明なものと思い込んでいる感情の概念から自由になるため、新たな「語りの様式とビジョン」を探求することが、現代の表現者には求められるかもしれない。

極めて射程の広い刺激的な論考である。

目のつけどころ

山田信哉「目のつけどころ」(サンマーク出版)を読んだ。

山田氏は「さおだけ屋はなぜ潰れないのか」というベストセラーを生み出した公認会計士である。「目のつけどころ」は、その山田氏の発想方法、よい目のつけどころを掴むための「パターン」を集めた一冊である。よい目のつけどころを得るためには、まず分析によって多くの視点を挙げることが必要ということで、山田氏は自らが実践している分析の視点のパターンをこの本では6つ挙げている。次に、そうやって得た多数の視点を「リストアップし」、そこから「これだと思うものを選んで、軸にしてみる」(p72)。そうやって2つの軸を生み出し、マトリックスを形成することを山田氏は勧める。このマトリックスこそが、アイデアが生まれる舞台となるのだ。思いついたアイデアをそのマトリックスに配置していき、さらにマトリックスの空いた象限にアイデアを配置していく(その実例はぜひ同書で確認してほしい)。そのマトリックスを山田氏は「黒十字アイデア法」と名づける。このあたりが、山田氏のうまいところであり、その著書が多くの人に読まれるポイントだろう。つまり遊びがあるのだ。

山田氏の経歴を拝見すると、文学部出身のようである。山田氏の柔らかい発想と柔らかいレトリック。山田氏は、べつにそれを大学の授業を通じて得たわけではないだろうが、今後の大学の文学部は、山田氏の有するこういったセンス身につけることができる場となるべきではないだろうか。アート系大学と相並び、クリエイティブ人材を育成する場としての文学部。ちょっと脱線気味の感想であるが、そのように思った。この本の後半では、テレビのコメンテーターとしての経験に基づいて、「説得力や切れのある発言をするためのフレームワーク」(p15)について述べられている。くすっと笑ってしまうような文章であり、さすがだと思う。

この本を通じて思うのは、よい目のつけどころというのは、正解が一つしかない問いへの答えのようなものではないということ。よい、悪いというのは相対的なものであり、幾つもの目のつけどころはあるなかで、どうチョイスをするのかが問題となる。考えてみれば、世の中にある問題には、正解がひとつしかないような問いのほうが少ない。そうした問題にどのように対応すべきか、その方法論には、様々なパターンがあり得るだろうが、この本は自らのパターンを編み出すうえで、参考となる。