金子兜太の「俳句専念」を読み始めている。
有季定型を俳句の必然、本質と定めたのは、虚子であって、それ以前は、有季が必ずしも必須とは考えられていなかったという指摘が興味深かった。
虚子の伝承が今に生きているのであって、しかしそれは伝統といえるような時間の厚みを経ているわけではない。
伝承と伝統の違いを踏まえた指摘で、兜太は鋭いなと思った。
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書物を読み散らかす、音楽を聴き流すように
金子兜太の「俳句専念」を読み始めている。
有季定型を俳句の必然、本質と定めたのは、虚子であって、それ以前は、有季が必ずしも必須とは考えられていなかったという指摘が興味深かった。
虚子の伝承が今に生きているのであって、しかしそれは伝統といえるような時間の厚みを経ているわけではない。
伝承と伝統の違いを踏まえた指摘で、兜太は鋭いなと思った。
「真実」梶芽衣子(構成 清水まり・文藝春秋2018)を読んだ。「女囚さそり」シリーズで圧倒的な印象を残した名女優が自らの歩みを語った一冊。
恨みという語で象徴される女性の深い情念を描いた「女囚さそり」シリーズは、寺山修司の天井桟敷等に代表されるアングラ文化の香り芬々たる作品である。僕の言うアングラ文化とは、その特徴として、土俗的、情念的なものを前面に出して表現する文化であり、一言で言えば暗い。そうした特徴を有する文化が花開いたのは1960年代後半なので、「女囚さそり」もその時期の作品かと思いきや、第1作の公開が1972年。考えてみれば当たり前のことで、文化的な傾向は10年ごとにきれいに区切られるわけではないだろうから、1970年代は1960年代後半と地続きであり、アングラ文化的なものは、1970年代も命脈を保ち続けたということなのだろう。自分の記憶に基づく印象で言えば、1980年代に高校生であった僕は、そうしたアングラ文化的な文物に触れようとしても、それは既に書物の世界の出来事であった。かろうじて大学時代に早稲田祭で観た大駱駝艦のBUTOH公演が、同時代の文化としてアングラ的なものに触れた唯一と言ってもいい経験である。やはり大学時代に、テレビ放映された「女囚さそり」シリーズを観たのだが、こんなに暗い陰惨な情念を描いた映画があったことに衝撃を受けた。それとともに、主演の梶芽衣子の美しさに目を奪われた。
「女囚さそり」の梶芽衣子の美しさは一言で言えば尋常ではない。凛とした佇まいなのだが、人間離れしている。「真実」を読んでそのような印象を生み出している原因がわかった。梶芽衣子演じる松島ナミは話さないのだ。この作品の台本を初めて渡されたときのことを梶芽衣子は次のように述べる。「(台本を)読んでみたら想像通り。タメ口羅列の女囚同士の喧嘩だらけで、安っぽいエログロ作品になりそうな内容でした。これはとても自分にはできない。けれど原作の漫画も読んでみて「アッ!」と気づいたことがありました。ヒロインがまったく言葉を発しなかったら面白くなるんじゃないかと」(p40)そう思った梶芽衣子は、監督にセリフなしの提案をする。確かに、どろどろとした、どぎつい描写が多い映画だが、その中にあって、松島ミナが無言を貫くことで、映像世界に得も言われぬ緊張感がはりつめ、醜い世界のなかにあって、言葉で表現できない松島ミナの情念が際立ち、むしろ世界の醜さが松島ミナの美しさを一層際立たせることになる。無言を貫くという梶芽衣子の選択が、この映画をエログロ作品に堕することを防ぎ、途轍もなくスタイリッシュな作品としたと言えるだろう。梶芽衣子は一流の女優である。
この本には、勝新太郎や高倉健など、日本映画を築いてきた名優たちのエピソードにも触れられており、その意味でも貴重な証言と言える。一つ面白かったのは、勝新太郎の歌に関する話。梶芽衣子が勝に自身のレコードを渡した際、それを聴いた勝が梶の歌を誉めたうえで、「やるなら役者の歌でいけよ」(p86)と言ったという。それはどういう意味か。梶芽衣子は勝が歌っている映像を見た際にその意味がわかったと言う。「番組のなかの勝さんはものすごく自由でした。感情が動かされるままに伸ばしたときは伸ばして歌っていらして、演奏は譜面どおりにどんどん進んでいるのにそんなのは知ったことじゃないという感じなのです。だけど終わる時はちゃんと合っている。」(p87)それこそが勝の言っていた「役者の歌」なのだと梶は思ったと言う。そして「間」というkeywordを使って次のように分析する。「芝居は演技をしている役者の間でやりますが、歌には音符という間がありますからそこに自分をはめ込まなければならない。そこが歌で一番難しいところなのですが、勝さんの場合は完全に勝さんの間で、勝さんにしか表現できないものにしてしまっているのです。」(p87)
現在70歳だという、この名女優。この本の終わりに「70歳からのリスタート」という言葉がある。この本には、一人の女性としての生きざまと、俳優としての経験が描かれている。それに触れた今、「70歳からのリスタート」という言葉に大きな期待を感じる。梶芽衣子にしかできない70代、80代の女優としての表現があるに違いない。一ファンとして、それを楽しみにしたい。
巨象とはIBMのことである。
「IBMに来た当初は、それほど多くを期待していたわけではないが、社内情報システムは世界最高だと思っていた。わたしにとって、これが最大のショックだったかもしれない。社内システムだけで年間40億ドルを費やしていたにもかかわらず、事業を進めるうえで基本となる情報すらもっていなかったのだ。システムは骨董品級で、システム間のやりとりができない・・・・・」
1990年代初頭の、これが世界のIBMの姿であった。
この状況から、IBMをソリューションビジネスを軸とする企業として復活させたのが、
著者のルイス・ガースナーである。
彼がCEOとなった頃、コンピュータ産業界では、IBMのように総合的な統合パッケージを顧客に提供するタイプの企業ではなく、DBソフトだけを販売する会社、OSのみを販売する会社など、コンピュータソリューションの一部のみを提供する新種の情報技術企業が多く現れ、そうした環境変化のなかでIBMは行き詰っていた。そのため、多くの専門家や識者はIBMを解体し分割すべきだと論じた。
しかし、ルイス・ガースナーはその論に組しなかった。
彼はあくまでもIBMを分割しないでスケールメリットを維持することに拘った。
彼は、IBMの復活の鍵は別のところにあると考えていた。
顧客は従来のIBMによる業界支配にうんざりしていたのだ。
顧客本位の姿勢を強めることこそが、その鍵であり、
分割すれば済むような問題ではないことを彼は認識していた。
☆
彼の就任後の記者会見は印象的だ。
多くの記者を前にして、彼はこう言った。
「わたしがいつIBMのビジョンを発表するか、さまざまな憶測が飛び交っている。皆さんに
申し上げたいのは、いま現在のIBMにもっとも必要のないもの、それがビジョンだということだ。」
あえて将来的なビジョンを掲げるのではなく、
まずは目先の問題、収益性の回復を目指すと彼は宣言した。
そのうえで、メインフレームから、クライアント・サーバー分野に進出し、ドメインの再定義を行い、時代環境に適応した形で、総合的な統合パッケージを顧客に提供する企業であり続けると言った。そして最終的な目標として、彼が挙げたのは、顧客本位の姿勢を強めるということであった。
☆
本書はどこを切ってもルイス・ガースナーの実践の結果報告であり、どちらかといえば、淡々と書かれているが、会社の現状に対して、彼が一つひとつ判断を下し、徐々にIBMが復活していく様は、読んでいて、強い感動を覚える。強く薦めたい一冊である。
なお、巻末には、ルイス・ガースナーが全従業員に送ったメールの文章が、掲載されている。彼は重要なポイントと思う時期を選んで、全従業員にメールを送っていたのだ。どのような事態を彼がIBMにとって重要と捉え、その事態に対して、どのようなメッセージを送ったのか。これはリーダシップ発露の貴重な生きた見本である。