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生成文法の誕生

「岩波講座 言語の科学<6>生成文法」から生成文法の誕生に関する記述を要約引用させていただく。

生成文法を産んだノーム・チョムスキーは、1940年代にペンシルバニア大学で、言語学者ハリスのもとで、構造言語学を学ぶが、彼は「要素の分類にすぎない構造言語学の言語分析や、刺激・反応に基づく言語獲得観に対して、強い疑念と物足りなさを感じていた」。ただ、ハリスから学んだなかで、「変形」という概念にだけは関心を抱いた。「ある文をもとにして、それに文法操作を加えることにより、ほかの文に変形」するという考え方であり、チョムスキーはこの「変形という概念を中心に据えた新しい言語理論」構築を開始する。(p53)

拍子抜けするほど、シンプルなエピソードだが、本当の頭の良さとは、このように事態をシンプルにする能力だと思う。チョムスキーが「変形」という概念に着眼できたのは、構造言語学の問題点をその本質において捉えていたからだろう。そして、それが使われていたコンテクストから概念自体を切り離して、別のコンテクストに移行し展開することのできる知性の柔軟性に感動する。

チョムスキーの名が広く知れ渡ることになったのは、1956年9月にMITで開催された情報科学シンポジウムだったという。このとき口頭発表したチョムスキーは、「『言語記述の三つのモデル』というタイトルで、当時情報理論として有望視されていC.E.Shannonらの『有限状態文法』の不備を指摘し、代わりに変形という概念を組み入れた言語理論を提案する。この発表は出席者に深い印象を与え、とりわけ数学のような厳密な言語理論を待ち望んでいた工学関係者の間では好意的に受け入れられた」この日出席していた「心理学者のG.Millerは後に、そのシンポジウムを『認知科学』が誕生した記念すべき日として回想している」(P 53~54)

チョムスキーの研究が正に時代や社会とクロスした瞬間だろう。こういう瞬間は、求めてもそう簡単に訪れるものではない。個人の営みとは別に、社会や時代が産み出すステージが常にある。そのステージがどこにあり、どのようになっているのかを意識しながら、個人の営みを続けることが必要であろう。これは学問研究だけではなく、表現活動やビジネスにおいても言えることだ。常にアンテナを立てつづけることが必要であるし、できる限り、そうしたステージに近い環境に自らを置くことも必要となる。

感情の擬人化

「世界でいちばんおもしろい英米文学講義-巨匠たちの知られざる人生」(エリオット・エンゲル著・藤岡啓介訳)を読んだ。かなりお薦めの一冊。12人の英米の文学者の人生のエピソードに触れた本。

マーク・トゥエインが、コカインの密売に手をそめながら、それを思わぬ形で断念する話や、天才作家ポーが、アメリカを訪問したイギリスの人気作家ディケンズと面会をし、その面会がきっかけで、名作Ravenが誕生した話など、面白い話が満載されている。

特に面白かったのは、 小説を書いて6800万ドルも稼いだという ディケンズの章。ディケンズの幼少の頃、父親が借金を返済できず、家族は債務牢獄で暮らすことになり、その借金を返済するために彼は、子供ながらに働いたという。23歳のときに、文章による街角の情景スケッチをはじめ、後にそれを本とする。その本は全く売れなかったが、ひょんなことから、その本がある出版社の編集者の目にとまり、ロバート・シーモアという人気風刺画家の本に文章を提供しないかと持ちかけられる。それに対して、ディケンズのとった行動は?

ここから先は、ぜひ本書で読んでほしいが、これを気に新聞等でみられる連載小説やTVの連続ドラマのかたちがつくられることになる。さらにディケンズは、同じ小説を、読者に3回も売る方法を編み出している。ディケンズの作家としての経済的成功を支えたのは、彼の文学的才能はもちろんであるけれど、それ以上に彼の一流のビジネスセンスが根底にはあったといえるだろう。この本には、フィッツジェラルド、ポー、ワイルドなど悲惨な末路を辿った作家も出てくるが、彼らとディケンズを画するのは、このビジネスセンスの差だろう。

また、ディケンズの小説の登場人物は、実在の人物はおらず、よく読めば、絶対にあり得ない人物像が造形されている。しかし、それでも人々は彼の小説の登場人物に感情移入し、そこにリアリティを感じるのはなぜか。

その秘密をエリオット・エンゲル氏は次のように述べる。「彼の描く人物は人々の心の内にある感情を擬人化した人物なのです。」(p185)なるほど、感情を擬人化したわけか。吝嗇、卑劣、嫉妬などの情念・感情は、多かれ少なかれ、僕らは皆、持っていて、それがどのようなものであるか理解できる。ディケンズはその感情に人格を与えたのだ。人物を描こうとしたのではなく感情を描こうとしたのである。これは、小説を書くうえで、大変に参考となる指摘だ。この指摘と出会えただけでも、この本は忘れられない一冊となった。

文学が脅かされている

構造主義的文学批評で有名なツヴェタン・トドロフによる文学論、「文学が脅かされている」(叢書・ウニベルシタス)を読んだ。

彼は、「文学は私が生きるのを手助けしてくれえる」と語る。「文学はわれわれの世界を拡げ、世界についてそれまでとは異なった仕方で概念を構成し、異なった仕方で世界を組織する方法を想像するように促す」(p9)。

トドロフは、米国の哲学者ローティーが述べる文学論も引用しながら次のように述べる。ローティーによれば「小説の読書は、科学的、哲学的、政治的著作の読書とは異なっており、まったく違った型の経験により近いものである」という。「その経験とは自分以外の個人との出会いである。新たな登場人物を知るのは、それまで知らなかった新たな人間を知るようなものである。」「小説を読む場合には、わわわれは登場人物たちをただちにその内部から知ることができ」る。そして「その登場人物がわれわれに似ていることが少なければ少ないほど、彼はわれわれの地平を拡げてくれ、したがってわれわれの世界を豊かにしてくれる」。ローティーは、文学が「自己中心主義」から我々を癒してくれるという。(以上、p61)

トドロフは、若き日にブルガリアから、「文体、構成、語りの形式といった」文学技法について学ぼうとパリに留学し、紆余曲折のすえ、ジェラール・ジュネットと出会い、さらにロラン・バルトと邂逅し、以後、フランスにとどまり、「作品を構成する諸要素相互の関係の研究を促進」した。

彼らの研究は、その方法論も含め、大変に大きな影響力をもつことになる。フランスにおける文学研究もその影響を強く受け、「文学作品を言語による自足的で絶対的な構築物」とみなし、それを分析する手法の学習が中心となってしまった。トドロフは本書において、その状況を「文学の矮小化」として強く非難しながら、文学の本質的な意義を述べるのである。

確かに文学研究においてはテキスト分析も重要であるが、文学の本来的な意義は読者のなかで起きる経験にこそ現れるだろう。その経験を全く忘却して、分析のための分析がテキストに対して為される状態は、トドロフのいうとおり、確かに健全ではないだろう。しかもこの指摘が、構造主義的文学批評の代表者であり精緻なテキスト分析を追求したトドロフによって為されたことに意外さを感じるとともに、非常に重い意味を持つ指摘であると思う。