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商売の秘密

和仁達也氏の「世界一受けたいお金の授業」を読んだ。 この本は、装丁などからすると、とてもくだけた感じがするが、書かれている中身は、いたって真面目である。

「少しの努力で大きなリターンを得るお金の『使い方』」に触れている箇所で、著者自身は「将来、収益を生む可能性のあるものと、人との縁をつくり深めるものには、僕は思い切ってお金を使います」(p21)と述べている。

この部分には、とても強く共感を覚えた。確かに「人との縁をつくり深める」ためにお金を使うのは、とてもよいことだ。その部分でお金を出し惜しみするのは、してはいけないと思っている。

もう一か所、引用させていただく。ある高級割烹料理店の話。1人1万円のコースで、信じられないほど豊富な高級食材のオンパレードだったそうだ。なぜ、これで1万円なのかという質問に対して、主人は、最初は答えず、ごまかしていたが、そのうち、こっそりと秘密を教えてくれたという。安いのは、主人のおまかせ料理の場合で、その仕入れに秘密があった。「いままでに現地まで足を運んで発掘したこだわりの仕入れ先が、食材ごとに全国に何百軒とあって、たまたま余った半端分をウチに安く送ってくれる」のだという。そこまで言うと主人はさらにあからさまに次のように言ったという。「こちらから『伊勢海老を5つください』と注文を出すと高くつきますが、向うから送りつけてくるときは半値以下で手に入るのです」(以上、p165)。

なるほどなあと思った。とても興味深い話だ。

お商売やビジネスには、それぞれ、裏というか、秘密というか、何らかの仕組みがある。ビジネスを作るということは、そうした仕組みを築きあげることなのだと思う。仕入先との関係性をうまく活かしながら、魅力的なサービスを提供している高級割烹店の主人。何百もの仕入れ先を開拓しているからこそ、そのサービスの持続的な提供も可能なわけだろう。ある意味、盤石ともいえる体制をつくりあげている。これこそがビジネスなのだ。

お金の使い方

日本資本主義の父と呼ばれ、紙幣にも肖像が登場することとなった渋沢栄一氏の著書「論語と算盤」。ちくま新書から、その現代語訳が出ている。この本のなかで、渋沢氏は、お金の使い方について次のように書いている。

「お金に対して、無駄に使うのは戒めなければならない。しかし同時にケチになることも注意しなければならない。よく集めることを知って、よく使うことを知らないと、最後には守銭奴になってしまう。」(p103)

そのとおりだと思う。

自営業者になって、お金に対する観念が変わった。請負の仕事の場合には、終わってから初めて報酬をもらうことになるので、場合によっては数ヶ月、収入が少ないこともある。そうした期間は、お金のありがたみを強く感じる。極力、無駄な使い方はやめようと思うようになった。サラリーマンの頃は、そうは思わなかった。いつも決まった金額をもらうので、お金の使い方も、毎月、だいたい同じパタンであった。そのパタンを繰り返していれば、お金に困ることはなかった・・・自営業者になると、いわゆる羽振りのいいときと、そうでないときの波がある。だからお金に処する姿勢をしっかり身につけないと生きていけない。

先日、ある自営業者から興味深い話をきいた。その人はある時期、一挙に1億程度の金を手にしたそうだ。その金を元手に新規事業を行ったが、結果的にお金が出ていくばかりで、ついには破産寸前にまで追い込まれたそうだ。

「浮利を得ると、ひとは間違いをおかしがちだ」とその人は言った。

結局その1億円がその人を苦しめる原因となったわけだ。この話をきくと、大金を得ることは、そんなに喜ぶようなことでもないと思える。そして大金を手にする可能性のある人は、お金に対する姿勢を、きちんとしておくべきだ。きちんとするというのは、手にした大金をひたすら貯め込むということではない。渋沢翁のいうとおり、よく集め、よく使うことが大切だ。特に自営業者の場合、次に何か新しい事業をやろうと考えるときには、必ずキャッシュが必要となる。手元に使えるお金があることが、とても大切なことになる。

言語学に関するメモ

20世紀以降の知における、特色のひとつとして、言語への関心をあげることができるだろう。

人類は、何千年にもわたり、知の体系を編み上げていたわけだが、それは言語を中心とする記号の使用を通じて為されてきた。二つの大戦を経て、理性に対する不信が蔓延し、ひいては、これまでの知の体系に対する反省を強いられることになり、その結果、知を表現する手段としての言語そのものへのアプローチが顕著となったと言えるだろう。こうした流れのなかで、言語を対象とする言語学が、知の世界における花形として、クローズアップされるようになってきた。

言語研究に革命を起したとも言われるチョムスキーの生成文法。その意義について、西田龍雄氏の「言語学を学ぶ人のために」の記述に基づき、要約する。

「人間が特定言語で日常どのような文をも生成することができるのは、一定の仕方で音声と意味を関連づける」「規則の体系を内蔵したものを、その言語の知識として持っているから」であるとチョムスキーは考えた。その規則は、大きく3つに分けられる。

①文を形成する規則の集合(=統語規則)
②文を解釈する規則の集合(=意味規則)
③文の発音を決める規則の集合(=音韻規則)

そしてチョムスキーは、人類が持つ言語の知識をこれら「3つの規則の集合として定式化するところに文法論の目的がある」と考えた。「チョムスキーによれば」「目に見えない生得的な人間の言語能力を探求するのが、文法理論の究極的な目標である」(p310)。

具体的にどのような理論を唱えたかは、ここでは触れないが、チョムスキーの理論への評価としては、従前の言語学が「心理主義を排斥した」のに対して、「むしろ心理主義に立脚している」点に特色があり、「全体の見方が演繹的である点も、帰納的な構造主義と対立する」という。

(以上、p19~22)

チョムスキーの生成文法に対する批判的勢力として有力なものとして、認知言語学があるが、この本には、残念ながら、認知言語学についての記述はみられなかった。

認知言語学の特色について、山梨正明氏の「認知言語学原理」から幾つか引用させていただく。 従来の言語学が扱ってこなかった視点について、山梨氏は次のように述べる。

「一般に、これまでの言語学の研究では、形態、構造、真理条件的な意味を中心とする言葉の知性的な側面を反映する研究が中心となっており、言語の感性的、身体的な側面にかかわる能力、さらにこの種の能力をふくむより包括的な認知能力の観点から、言葉の世界を問い直していくという視点は考慮されていない。」(p2)

言語学が扱ってこなかったとされる認知能力であるが、 「主体が外部世界を認識し、この世界との相互作用による経験的な基盤を動機づけとして発展してきた記号系の一種 」であるという言語の性質からすれば、この能力は無視できない。 「言葉の背後には、言語主体の外部世界に対する認識のモード、外部世界のカテゴリー化、概念化のプロセスが、何らかの形で反映されている」 のである。

そして「認知言語学は、このような人間の認知能力にかかわる要因を言語現象の記述、説明の基盤とするアプローチをとる」わけである。「外部世界を解釈する主体の認知のプロセスには、「抽象化・具象化のプロセス、焦点化のプロセス、視点の投影、視点の移動・変換、図ー地の反転、前景化-背景化のプロセスをはじめとするさまざまな解釈のモードによって特徴づけられている」(p19)

これらは、認知科学の研究成果に基づく知見であり、認知言語学は、その知見をバックグラウンドとして成立している。このような特質を有する認知言語学は、主体性や身体性なども重視し、メタファーなどについてもテーマとなる。