< /head>

フロイトの収入

藤山直樹氏の「集中講義・精神分析<上>精神分析とは何か/フロイトの仕事」を読んだ。面白い本である。精神分析家として生きる著者ならではの体験に基づく知見に満ちた一冊。単なる耳学問ではなく、実践としての精神分析がどのようなものか垣間見てみたい人は必読だと思う。

例えば、精神分析が、実証を重んじる科学と如何に異なるものであるか。

「精神分析はいわゆる実証主義の考え方とはある距離があります。非常に主観的な体験を相手にして何かをしていこうとしています。患者や自分の主観的体験subjective experienceにフォーカスしたものです。サブジェクティブなエクスペリエンスこそが大事であって、この主観的体験というものは本質的に絶対に実証主義的に扱えないというふうに考えています。精神分析はエビデンス・ベーストではないんです。エクスペリアンス・ベーストなんです。ナラティブ・ベーストという言葉もありますが、精神分析は、基本的には何かがナラティブになって、ある話になって、物語になって、理解になるまでに、あるエクスペリエンスをするということをとても大事にします。分析家とのあいだである体験をして、その体験から何かを練り上げてくるというような営みです。」(p12)

精神分析を確立したフロイトはセクシュアリティを重視した。「精神分析の最終的な達成目標がgenitalなprimacy」であり、genitalとは性器を意味する。「本当の意味で相手を尊重して、相手の痛みもわかり、そして貫くということにまつわるある種の本質的な攻撃的なものも引き受け、そしてそこにある種の生産も引き受けるということがgenital」(p37)であるという。

そのフロイトが、どのようにして生計を立てていたか、とても興味深いところである。「フロイトは週6回の治療をやっていました。ということは、8時間働いたとして、毎日同じ人とずっと同じ時間帯に会っていたと思いますから、ある一時期には8人としか会っていないわけですね。つまり8人からもらうお金だけで生きているわけです。」その収入でフロイトは十人ほどの家族・親戚を養っていたのだという。「フロイトにとって一人の患者が終わるということはものすごい経済的打撃なんですよ。収入の8分の1がなくなるんですから。そういうなかで、一所懸命、中立性だとか、自分の欲望をどう制御するかとか、そういういろいろなことを考えたのです。」(p17)

生業ということについて、深く考えさせてくる一節である。

フォーク・ロック

中山康樹氏の「ビートルズとアメリカ・ロック史―フォーク・ロックの時代」を読んだ。アメリカは、「ロックンロール」を生んだが、それが「ロック」に生まれ変わるには、イギリスを迂回する必要があった。アメリカのロックンロールとブルーズは大西洋を超え、イギリスでブリティッシュロックとなる。その精華ともいうべき、ビートルズが今度はアメリカで一大旋風を巻き起こす。そのイギリスからの侵略に対するアメリカからのアンサーが、バーズのフォーク・ロックであった。フォーク・ロックこそがアメリカ流の初めてのロックである・・・以上が本書の基本的な見立てということになるだろう。

この本では、フォーク・ロックにまつわる有名な伝説の真偽が論じられる。それはどんな伝説か。

ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」には、印象的なオルガンがフューチャーされているが、それは本来の録音メンバーではなく、たまたま見学に来ていたアル・クーパーが無断で参加したというもの。加えて、その日にもうひとつの画期的な出来事がその場所で行われたという。メジャーから初めてのアルバムを出したが売れ行きが芳しくなく解散した無名のフォーク・デュオがいた。その日、彼らの知らない間に、彼らの曲にオーヴァーダビングが施され、歴史に残る名曲となった・・・そのフォーク・デュオは、サイモン&ガーファンクルであり、曲は「サウンド・オブ・サイレンス」。なんとも凄まじい伝説である。

その真偽についての中山氏の推理については、同書で確認してほしい。

ただ一つ明らかなことは、「ライク・ア・ローリング・ストーン」にも「サウンド・オブ・サイレンス」にもかかわった一人のプロデューサーが存在すること。トム・ウィルソン。僕は本書で初めてその名を知った。「フォーク・ロックが『自然に生まれるもの』より『作り出すべきもの』に比重を置いた音楽である以上、プロデューサーが果たす役割は、ときにミュージシャンより大きく、重い」(p46)と中山氏はいう。如何にして、新しい音楽表現は、産み出されて行くのか。フォーク・ロックを素材にして、その有様を探求した書。とても興味深い。

優れたプロジェクトの思想

イタリア デザイン界の巨匠、エンツォ・マーリ(1932年生)の「プロジェクトとパッション」を読む。とても美しい本で、手元に置いておきたい。

ただ、中身はかなり難解で、歯ごたえがある。この本は、技能・技法について説いた本であるが、その一方で思想書でもある。思想というのは、世界認識や歴史認識を前提とし、世界や歴史を把握するためのフレームワークの呈示が重要となる。思想書である本書は、そうしたフレームワークの呈示から入り、その延長線上で、具体的な技法論が語れられる。そのため、技能・技法を学びたいと思って本書に触れた人にとっては、フレームワーク呈示にあたる部分は、迂遠なものと思えるに違いない。

以下自分なりの理解のための読書メモ。

人類はその歴史の最初からものづくりのプロジェクトを行ってきた。しかし、18世紀の終わりから19世紀の初頭にかけて、フランス革命、産業革命、社会主義思想の誕生といった出来事が起こるなかで、デザインのイデオロギーが生まれたという(p9)。ウィリアム・モリスらは、「工業化によって押し進められた労働の細分化という形式に全面的に従うことなく、包括的にプロジェクトをとらえようとする思考」、「優れたプロジェクト」の思想を唱えた。工場の生産ラインにおいて、いわば歯車として機能する労働者のありさまに対して、彼は「手仕事に秘められた可能性を人々が再び手にし、それを豊かに実らせる未来の夢、自然と甘美に戯れる地上の楽園、ユートピア」を礼賛した。そして「新しい道具は本質的に、平等の『普遍性』を実現するために産み出されるべきもので、簡単に廃れることのないかたちを実現すべきである」と考えた。(p15~16)

近代の産業体制に抗して、「理想、平等、変化」を求め、ユートピアを目指すのが、「優れたプロジェクト」である。著者のマーリは言う、デザイナーは「ユートピアと現実という二つの世界を同時に意識しながら仕事を進めることが必要である。」(p23)。デザインは、ユートピア思想と切り離せないものなのだ。

次にマーリは、ものづくりのプロジェクトの構造を分析するために、その根底には3つの文化的地平があることを明らかにする。それは、A生産関係の地平、B自然科学の地平、C表現の地平である。A=生産関係=必要性、B=科学=技術・素材、C=表現=かたちである。その3つの視点に基づき、その相互作用を意識しながら、マーリは、あるべきプロジェクトの在り方について述べていく。

プロジェクトとは、「他者や自分が投げかけた欲求から生まれる、明確な問い(必要)に対する答えである」(p108)。マーリは「必要」というキーワードに基づき、売り手、企業家、労働者、プロジェッティスタなどのそれぞれの「必要」についても論じる。そしてマーリは、「プロジェッティスタと労働者の相互依存性の必要性」を強調し、そこに「総体的な変化がもたらされる」可能性を期待している。(p92)。

本書において、プロジェクトの技能論が集約されているのは、第4章「自然の方法論」であろう。そこには、プロジェクトの、技能論的な観点からの定義が述べられている。曰く「プロジェクトとは、一つのプロセスの限定のなかに巻き込まれ(う)るすべてのものから、何を最優先すべきか、段階を追って突き止めることによって実現するものである。」(p134)プロジェクトの遂行にあたっては、優先順位を決定することが重要ということだろう。最終章で、マーリは、学生に対する具体的な助言を行っている。例えば、かたちを具体的に実現する過程を、マーリは次の4つの通過段階で捉える。

(A)要求されたプロジェクトのための理想のモデルを決める。
(B)モデルAの総体を構成する様々なパーツの理想的モデルを、その製造上の理想的技術とともに定義する。
(C)AとBの理想の実現を拒むマイナスの性質を、重要度を考慮しながら確認する。
(D)AとBとCを照らしあわせ、そこから考えうる妥協案を過程する

とてもわかりやすく、プロジェクトの進め方をイメージできる。

非常に多角的・多面的にプロジェクトを捉えようとしているため、論述も直線的に流れない。しかし、プロジェクトのかたちと情熱をできるだけ明確に捉えようとするマーリの思考は、デザインとか何かを考えるうえで、重要な示唆を与えてくれる。