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レクイエム

鈴木創士氏の「中島らも烈伝」(河出書房新社)を読んだ。2004年に亡くなった不世出の表現者、中島らも。その評伝と思って読むと肩透かしを食らう。評伝とは、ある人物の人生を第三者的な視点で描くものであろうが、この本は、徹頭徹尾、死者への語りかけとして吐露されたものであり、死者への捧げものである。

「この本に書かれたすべての言葉を君に捧げることができるなら、あらためてこの本を永久に消えることのない君の「死」と「生」の両方に、そして君のすべてに捧げることができるなら、」

このフレーズに続く、鈴木氏の最後の言葉。「それなら、もう僕には言うことは何もない」(p169)。これほどあからさまな、カタルシスの吐露はそうあるまい。たしかにこの本には一気呵成に吐き出された勢いがある。中島らもについて書いているというよりも、らもと鈴木氏が共に生き、共に過ごした時空が言葉になって刻印されている。二人が共有した時空を、少しでも鮮やかに偽りなく刻印するために、文体の洗練さよりも、むしろ速度が択ばれたという印象である。

この本で、ぼくが一番好きな箇所を引用させてもらう。中島らもという人の本質をこれ以上美しく捉えたエピソードはないのではないだろうか。鈴木氏が朝帰りの途中、午前5時に車でらもの家に立ち寄った際の出来事。

「何してる?」

「見りゃ、わかるだろ。水を撒いている」

「こんな朝早くから?」

「あんまり朝がきれいだから」、

君はそう言った。

君は朝やけが美しいから、朝があまりに美しかったから水を撒くような奴だった。僕は君のそんな非凡なところが気にいっていた。(p86)

常に危うい、ひりつく殺気を漂わせ、無軌道で無茶苦茶にも思える中島らもという人の根底にあったもの。それはイノセンスとしかいいようのないものだった。そんな風に言いたくなる。

鈴木氏は、ユダヤ人であることの意味を突き詰めた詩人、エドモン・ジャベスの翻訳者であり、ぼくは鈴木氏の翻訳を通じて、ジャベスが開示した詩的表現によって撃たれた経験を有する。ジャベスの「ユーケルの書」(水声社)の帯に、「「生」と「死」がお互いを見つめ合う、その透明な視線が美しい」という一文を含む、印象的な文章が、中島らもという署名とともに記されていた。それは、鈴木氏が最初に翻訳したジャベスの「問いの書」に中島らもが寄せた書評の一部であったという。らもへのレクイエムと言える本書のなかで、鈴木氏は、その全文を掲載し、感想を述べている。その箇所を読んで、ぼくは、精神のこんな深い次元で、人と人がつながれることに羨ましさを感じつつ感動した。

読み終えた後、中島らもがいないことへの喪失感と、しかし完結したひとつの人生が確かにあって、中島らもという人の存在が彼の生きた時間の空気感とともに、この本に刻印されていることを強く感じた。

この本は、評伝ではない。「烈伝」としかいいようのない、稀有な書である。

二宮金次郎

童門冬二氏の「評伝二宮金次郎 心の徳を掘り起こす」を読んだ。 二宮金次郎の人生と思想に触れるのに最適な一冊。

金次郎は言う「土の中には徳が潜んでいる」と。「それを掘り起こすのがクワだ。しかしクワをふるう人間の方に徳がなければ、土の中にある徳も掘り起こせない。土が不毛で、農作物が育たないのは掘り起こす側に徳がないからだ。つまり徳のない人間がいくらクワをふるおうと、土中の徳は応えてくれない。」(p46)同じことは、人間関係についても言えるだろう。徳をもって接すれば、どんな人でも徳をもってかえすだろう。相手が失礼な振る舞いをしてくる場合などは、こちらが、相手の徳を掘り起こせていないとも言える。

江戸時代には数度の不況があり、その度に幕府のよる改革が為されたが、金次郎が活躍した時代は、天保の改革の時期にあたる。天保の改革を推進した老中水野忠邦の前任の老中であった大久保忠真は、小田原藩の名君であったが、金次郎はその小田原藩の農民であった。そして、その忠邦が藩の財政を立て直すために金次郎を重んじた。

金次郎の財政立て直しの方策は「報徳仕法」というものである。これは次の3つを重んじる。
1.分度を立てる(倹)
2.勤労する(勤)
3.余ったものを推譲する(譲)

分度を立てるとは、「分に応じた生活設計をする、入るをはかって出ずるを制する」ということである。即ち倹約することである。そしてすべての人間が働くことが必要だと説いた。その際、金次郎は、国の大本たる農を重んじた。金次郎は観察や実体験に基づき、自らの思想を練り上げた人だが、農の在り方を通じて鋭い指摘をしている。

「二宮翁は言われた。事物の根元は、必ず卑しいものである。卑しいからといって根元を軽視することはまちがっている。例えば、家屋は土台があって後に、床も書院もあるようなものだ。」社会において根元・大本を為す職業とは、「世間の者すべてが一同にこれを行って支障のない職業」であると金次郎はいう。「役員は尊い地位であっても、全国民すべて役人となったならば、どうであろうか。」しかし「全国の人民すべて農民となっても支障なく立ち行くことができる。」のであって、農業こそが国の大本なのである。そして「農民は国の大本であるために賤しい」(p324~325)のだと金次郎は言う。

この指摘には、とても驚いた。大本にあるのだから尊いとなりそうなものだが、そうではなく、むしろ卑しいとされてしまう。この逆転ともいえる価値づけの在り方は、かなり根本的で重要な指摘だと思う。必要不可欠のものだが、それが行き渡り、ありふれたものとなると一挙に価値が無くなってしまう。これは、現代において生活必需品等でみられるコモディティ化現象とも通ずる事態だと思う。ありふれたものよりも希少性のあるもの、必要不可欠のものより、必要でないものの方が高く評価されるという状況。金次郎の指摘は、人間社会の価値体系の在り方を問う、普遍的な深さと鋭さを有している。

さらに金次郎は、余ったものを推譲することを勧めた。推譲とは「自分の余ったものを押しだすことによって、向こう側もその徳に応えようとする。」(p79)ことだという。これについては、金次郎は「風呂の湯」という卓抜した比喩を用いて説明する。即ち「風呂に入っていて、ぬるいので湯を沸かし続ける。熱い湯が入ってくる。しかしその熱い湯は、こっちに招き寄せてもやって来ない。逆に、自分を包んでいる湯を向こうへ押しやると、代わりに熱い湯がやって来る。」(p78)。とてもイメージしやすい話だ。招き寄せようとして必死になっても欲しいものは来ない。むしろ逆に、手元にあるものを差し出すことによって、欲しいものがやってくるというわけだ。

これも非常に大切な指摘だと思う。まずは与え、後に恩恵を受けるというわけだが、他人への信頼がなければ、こういう順序で物事を運ぶことはできない。隣近所皆知りあいという村的なコミュニティでは、こうしたことも可能だろうが、隣に住んでいる人が誰かもわからないような大都市ではこうしたやり方は難しいだろう。ただ、最近、ネットの時代になって状況が変わってきたと思う。ネットの世界では、まずは与えるという考え方が評価される傾向がみられる。そして、与えたものに対しては、回りまわって何らかの利益が帰ってくることも多い。それは、名誉であったり、寄付金であったり、様々であろうが、何らかのフィードバックがある可能性が高い。直に他人と接しているわけではないネットの世界で、昔の村のコミュニティのような人間同士の信頼関係が、むしろ醸成されやすいというのも興味深い現象だと思う。

二宮金次郎の思想は、今を生きる私たちの生き方にも語りかける普遍性をもっていると思う。積小為大という金次郎の生活信念を自身も見習いたいと思う。

信用の創造

ドラッカーは『現代の経営』(The Practice of Management)において、企業の目的を「顧客の創造」(=to create a customer)にあると述べた。また、『マネジメント』において「顧客満足があらゆるビジネスの使命であり目的である」(To satisfy the customer is the mission and purpose of every business.)と述べている。顧客に満足を与えることが、顧客を創造をするうえでのキーポイントといえるだろう。

顧客満足といっても、一時的なもの、一過性のものであってはならない。満足した顧客が、再び、自社との関わりを積極的に持とうという状況まで造りださねば、その事業が成功したとは言えないだろう。顧客が、ある企業の製品を再び手にとろうとするとき、その顧客の内心には、その企業に対する「信用」が生まれている。そうした信用を与えてくれる人こそが、その企業にとっての顧客といえるだろう。

だから、僕なりに「顧客の創造」を言い換えるなら「信用の創造」となる。信用創造こそが企業が日々の営みのなかで目指すべきものだと思う。堀江貴文氏は、『新・資本論 僕はお金の正体がわかった』(宝島社新書)という本のなかで、お金の本質について「お金は信用の数値化だ」(p48)と述べている。さすがだなと思う指摘だ。

信用の創り方について堀江氏は、次のように述べている。まず「信用」とは、「自分自身を生かしていく自分の力」であり、それは成功体験によってつくられると堀江氏はいう(p58)。成功するためには、①「リスクをとって自ら動く」という意味での投資をすること、②他人とコミュニケーションを図り、他人との繋がりを造ることが大切だという。お金を稼ぐためには「信用、投資、コミュニケーション、この三者の上昇する循環系(サーキュレーション)」(p63)を産み出すことが大切だというのが、堀江氏の考えだ。

堀江氏の信用論には「顧客」という概念が全く出てこない。他人は出てくるが、それは顧客ではない。信用を「自分自身を生かしていく自分の力」と述べ、そこに他者からの評価という視点が全く入っていないのも非常に独特だと思う。その点が、堀江氏らしいとも思う。しかし、それでも堀江氏の指摘は、かなり鋭く本質を突いていると思う。

堀江氏は、リスクをとるという意味での投資が必要だというが、顧客の必要を満たす製品やサービス、あるいは流通方法などが、これまでに類似のものがなければ、ないほど、ビジネスチャンスはひろがるだろう。そしてそうした新規性を追求することは、リスキーであって、そうした事業を行うこと自体が、投資であるともいえるだろう。そうしたリスクをおかさずに、従前から存在する製品やサービスを提供するということになれば一般論としてリターンはあまり期待できないだろう。

とろこで、「信用」と似た言葉に「信頼」がある。信用と信頼の違いについて、少し考えてみた。

信用は信じて用いる、信頼は信じて頼るということ。信頼は、情的なものに根差すが、信用は、ロジックに根差しているのではないか。そこに両者の違いを求めることができるのではなかろうか。ただ、その差は相対的なものであって、信頼の根底にもロジックはあるだろうし、信用の根底に好嫌感情が存在することもあるだろう。だから情とロジックのいずれに強調点が置かれるかという違いだと思う。

僕が尊敬し、お世話になっている経営者の方をみていて思うのは、物事を判断する際にきちんとロジックがあること。ロジックがある、というのは、例えば、損得勘定ができるということ。あるいはお金との関係性で言えば、受け取る意味のあるお金はしっかり受け取り、受け取る意味のわからないお金は受け取らないということ。そういう人は信用される。

信用関係は損得勘定を基盤とし、原則として、そこから離れることはしない。それに対し、信頼関係は、時として損得勘定を超えた判断や行動が求められることもある。ビジネスは言うまでもなく信用関係を基盤として成立するのであって、損得勘定を超えて、お客さんに過剰なサービスをしたりすると、そうした無理の結果、かえって信用を失ってしまうこともある。しかし生きていくうえで、支えとなるのは、信頼関係である。ビジネスを行う際の、パートナーとの間に信頼関係があることは、極めて重要である。