鎌田茂雄氏の「『観音経』の教え 弱い自分に克つこころ」(PHP文庫)を読んだ。この本には少し長めの「序章 観音力とはなにか」があるが、この序章において、鎌田氏は本書の思想のエッセンスを述べており、それを敷衍し、より一般の読者向けに事例などを挙げながら語ったのが1章以降という構成になっている。あるいは、序章を飛ばして1章から読んだほうが読みやすいかもしれない。以下、序章の記述に即して、観音とは何かについてまとめてみる。
抜隊得勝(ばっすいとくしょう・1327-1387)という臨済宗の僧侶の法語を集めた「塩山和泥合水集」という書には、観音について次のように述べられているという。「仏が在世の時に一人の菩薩が」いた。「仏の教えを聴聞し、思惟し、禅定三昧に入ったために、観世音という名前を」もらった。「この観世音とはどんな人かというならば、一切の音声を聞く時に、その「聞く心」を観じて自性を悟る人だった」(p21)。ここでいう、自性とは何かとうと、それは「無相なる自己の相」であり、「自性といっても、そこに自性という実体があるのでは」ない。「自性はただ妙用(みょうゆう:すぐれた用)として働くのみ」(p21)という。
それでは、自性の妙用とはどういうものか。禅者の盤珪永琢(1622-1693)は、「心経抄」という書において、「眼を開けば山河草木、青黄赤白黒、大小方円きらりと顕れ、耳を通すること千万の音、六根皆その如く、千万のこと一度に対して、一つも見ぬことなく、聞かぬことなく、この心の自在なること」(p25)と表現している。即ち「自在に見る、自在に聞く、自在に触れる」、「こころが自在なること」が自性の妙用であり、それが即ち観音なのである。
盤珪永琢 は、観音は自分自身のことである(観自在菩薩、自らのことなり)と述べている。観音はどこか別のところにいるのではなく、あくまでも自分自身こそが観音なのある。 しかし私たちは「煩悩の業火に焼かれ、浄らかな観音さんとは正反対の存在」ではないか。どうして観音は自己自身であるなどと言えるのか。 欲望や妄念に囚われない自由な心の在り方こそが観音であり、それは本来私たち自身の姿なのだが、それが見えない状態になっているというべきである。
この点、抜隊得勝は、「一切ノ心中ノ妄情ハ、自性を観ズレバ、即時二ミナ消滅ス」(塩山和泥合水集)と述べており、自性を観ずれば、自ずと私たちは観音を観ることができるとする。それでは、自性を観ずるにはどうすればよいのか。「第一には一心称名であり、第二には無心、無念になることです」(p44)。そして、両者は「ある意味においては同じこと」と鎌田氏は言う。観音を観ずるためには、一心に観音さんを念じて、無心になればいいというわけである。
そして観音経において大切なのは、淫欲や愛欲といった煩悩を否定するのではなく、「煩悩を純化することが大切」(p53)とされていることである。「観音経の理想は、この愛欲にみちた現実の世界、貪、瞋、痴にみちたこの現実の人間の苦しみを少しも動かすことなく、そっくりそのまま価値転換を行い、純化し、理想を現実化していくこと」にある(p53)。