画商のD.H.カーンワイラーによる美術評論「キュビズムへの道」(SD選書)を読んだ。特に印象に残ったのは、キュビズムの古典的完成を成し遂げたともいえるスペイン人の画家ジュアン・グリ(Juan Gris 1887-1927)に関する論述。キュビズムといえばブラックやピカソと考える僕は、グリという画家については、寡聞にして知らなかった。以下、同書より、グリに関する記述を要約引用させていただく。
彼は1906年にスペインからパリにやってきた。専門的な美術教育は受けたことがなかった。「美術学校というものに行ったことのなかった彼は、」「対象を十分に把握するため、極めて謙虚に、何年もの間とりわけ静物をデッサンし、描き続けた。」「こうして彼がその作品を公開したのはようやく1912年のことだった」という。
彼はそもそも絵画とは何かを考えた。「絵画の技法の中で常に変わらぬもの、常数ともいうべきものは何なのか?彼が、のちにそのすぐれた講演「絵画の可能性」で語ったように、それは、「着彩された、ある種の平面的な建築」である」。この結論を得た彼は、「想像力を自由にはばたかせ、それによってさまざまに着彩されたイメージを現前させる」ことになる。
カーンワイラーは、グリの探求アプローチとセザンヌのそれを比較し、両者は、ちょうど逆のアプローチを採用していたと指摘する。「セザンヌは構築を目指して努力した。しかしグリの場合その道は構築から出発している。個から普遍ではなく、グリは普遍から個へ向かったのである」(p54)。セザンヌは、具象的な対象を描きながら、それを如何に構成すべきかを探求し、結果として抽象絵画への道を拓いた。それに対して、グリは、最初から「形態を最も重要とみて、その描出につとめた。それは、対象のさまざまな相を分割し、分解することによって達成された。そして、方形の画面の中にこれらの線や色面をいわば溶接して、自律的な存在にしようと努力した。」
そうやって、形態の追求を行っていた彼は、あることに気がつく。それは、「人間に存在するあの客観化への志向」とでもいうべきもの。抽象的な形態や色の組み合わせを観た時、ヒトは、「その絵の中に何か具体的なものを見て」とろうとする。「そうなれば、その絵は見る人にとっては決して「抽象的」ではなくなる」。「画家の全く予期しなかった連想作用が入り込み、作品の意味も完全にとり違えられることになるのである」。
この傾向を知ったグリは、それを逆手にとることを考える。「それなら、このような色面を「修正」して、見る人に具象的に映るようにすることはできないだろうか?たとえば、白は皿、赤は壜、黒は影に見立てるというふうに。これはたしかに可能である。それも色面の形態に手をつけることなく、わずかなきっかけを与えるだけで十分。白地のうえに何本か黒い平行線をひけば、そこには皿の代わりに楽譜が生まれる。」「彼は色面を客観化し、これらに連想作用による付随的な美を与えた。たとえば入り江の曲線と静物の曲線 グリが出会った尼僧は、彼の絵の中で白と褐色の姿で生まれ変わっている。」
グリは、「このような方法を「詩的」と呼んだ。いみじくも彼がいったように、彼はその絵に「韻」をふみ、隠喩を含ませ、それによってこれを観る人に今まで想像もできなかったような様々な似姿を提示した。壺の開口部はそのとなりの梨の実に似ていないか。楽譜はギターの弦を、ハートのAはコップを思わせないか。」
「私は感動を修正する規範を愛する」とブラックは語ったが、それに対してグリは「私は規範を修正する感動を愛する」と答えていたという。「規範から出発し、秩序を求め、明晰を欲するこれらの作品が深い感動に貫かれた、一人の真実の画家による詩的な絵画であることを、今日ますます多くの人が感じている」(p58)とカーンワイラーは言う。
通常の画家とは異なるアプローチで絵画をラディカルに考察したグリ。絵画そのものを原理的に捉えようとする彼の姿勢に共感を覚える。