音楽評論という表現のあり方を考えるとき、湯浅学という人は絶対に外せない。湯浅学氏の「音楽が降りてくる」を読んだ。
アルケミーレコードの面々の音を聴いて、彼はいう。
「ノイズはノイズであり、ノイズのようなもの、ではない。真剣にならなければノイズ発信者は自分の出しているノイズに負けてしまう。体験として俺はそう思う。インキャパシタンツを見るたびに感動し、非常階段を聴くたびに爽快な気分になるのは、当然浄化作用もあるが、彼らは音を出しているのではなく音と戦いながら引き分けには必ず持ち込むが、その過程を赤裸々に見せつけるからである」(p91)。
音楽を聴くという経験を、如何に言葉に置き換えてみせるか。
ある瞬間には、その瞬間なりの状況がある。
その状況を如何に捉えるか。
そのためのレトリック・・・・
「ノイズはノイズであり、ノイズのようなもの、ではない。」
「ノイズのようなもの」、が挿入されることで、
動きが生まれ、状況は際立つ。
「爽快な気分になるのは、当然浄化作用もあるが、彼らは音を出しているのではなく音と戦いながら引き分けには必ず持ち込むが、その過程を赤裸々に見せつけるから」
聴くという体験が波状に押し寄せる。
意識の波うちぎわ、皮膚の表層で、
生まれては消える、感覚の諸相。その揺らぎ、振幅。
それに対応する言葉を、貝殻のようにひろって、
重層的にひろげて・・・・・・