ヒップ アメリカにおけるかっこよさの系譜学 (P‐Vine BOOKs)
ヒップとは何か。
「それはセロニアス・モンクのピアノの至福であり、アンディ・ウォーホルのフィルムが黒いタートルネックの上に映写されるなか、ドラッグとサドマゾヒズムの曲を演奏するルー・リードとヴェルヴェッド・アンダーグラウンドのストイックな野生である。ジャック・ケルアックの文章がもつ「バップの韻律」のフローであり、レニー・ブルースの加速する風刺であり、ジェイムズ・エルロイの気高いパルプ・フィクションがもつ速射砲のようなリズムである・・・・・」p2
あるいは、
「黒人と白人がともに踊るダンス。アウトサイダーの愛。ハイ・カルチャーとロウ・カルチャーにまたがること。薄汚れた気高さ。」
特に興奮したのは、ビート・ジェネレーションに関して書かれた一節。
「ヒロシマとナガサキが理性によって破壊された時代に、ビバップのミュージシャンとビートの作家たちが産み出した芸術は、理性に背を向けた不合理なものだった。磨き上げられた作品を提示するのではなく、彼らはぎざぎざした経験の瞬間を祝福した。その瞬間は合理的というよりも直感的なものであり、合理が追いつくやいなや移動してしまうものである。これはあらかじめ構成されたものの完全性とは異なる、即興ならではの美点であった。スウィングのタイトなアレンジを拒否したミュージシャンたちのあとを追い、作家たちは受け手と同じ自制に自らを置き、現在進行形で作品を作り出した―ケルアックの言葉によれば、「ワイルドで、訓致されておらず、ピュアで、内部からせり上がってくる、クレイジーなものほどよい」のであり、それは「個人の言葉にできないビジョンを解き放つ」のだった。言葉や音をまっすぐに吐き出した彼らは、不完全の美学を完成させた。」p216
以上。
ここに僕の今やりたいことが、全部書いてある。ぎざぎざした経験の瞬間(僕なら、ひりひりする瞬間と書くけど)の追求、不完全の美学。
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ヒップといえば、その対極は、スクエア。 この本の解説で、佐藤良明さんが、植草甚一さんのエッセイを引用している。ヒップとスクエアの違いは何か?
「誕生日プレゼントに、黄色いバラ3ダースを贈るのがヒップで、ミュージカルのペア券や箱入りチョコレートを贈るのはスクエアだ」。
なるほど。面白い。
要はTPOで使い分けなきゃだめだな。
いついかなるときでもヒップだと生きていけない・・・・・
僕はヒップなものに強い憧れをもっている。その反面、スクエアなものに対する敬意も持っているつもりだ。計画的で、計算ができて、物事の整理がきちんとできる。要するに事務処理能力のある人間を尊敬するし、自分もそうなりたいと思う。
ヒップなものにシンパシーを抱く人間はともすると、スクエアなものを軽蔑してしまう傾向がある。でもね、ちゃんとプロセスを踏んで、ロジカルに処理していくようなことができず、心情のままに突っ走れという感じで、普段から生きようとしたら、死んでしまうね。
もっといえば、ヒップとスクエアは相反する概念なんかじゃなくて、ヒップであるためには、基礎力の養成というか、地道な努力みたいなものが必須で、それはどちらかといえばスクエアなものだ。つまりヒップであるためには、スクエアな部分を持たないといけない。
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さて少し次元の違う話だ。 今、日本は旧来の常識や制度が通用しない時代に突入している。制度が安定している時代であれば、 スクエアの権化みたいな人たちが幅を利かすことができるが、これからは、徐々にそうでなくなってくる。 これからの時代は、多少レールから外れても平気な神経と体力、常識に囚われない自由な発想、小刻みな変化のリズムにのれるだけの野蛮なセンス、そういうものが求められる。
要するにスクエア一本槍では、どうやら生き難い時代のようだ。
ヒップにならないと生きていけない。