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忘れられた哲学者

土田杏村という哲学者は、「象徴の哲学」という本の作者として、名前は知っていた。ぼくは象徴主義の詩に関心があったので、その流れで古書店で「象徴の哲学」を購入したのだが、難解極まりない本で、読み解けず、弾かれたままになっていた。そんななか、土田杏村を扱った清水真木氏の「忘れられた哲学者」を知り、読んでみた。

1891年に生まれ、1934年に亡くなった哲学者、土田杏村は、西田幾多郎の弟子であり、大正・昭和初期に活発な言論活動を行い、15巻の全集も刊行されるほどであったが、その後、その存在は全く忘れられることとなった。なぜ忘れられたのか。この問いを基本的なモティーフにしながら、清水氏は土田杏村の実像に迫る。

本書の白眉 は、土田杏村の思想を読み解いた第3章・第4章である。ぼくも手にした「象徴の哲学」は、杏村の主著と目されるべきものであり、清水氏はその思想を読み解く。杏村の「象徴主義」は、米国のプラグマティズムを日本に導入した一人である早大教授の哲学者田中喜一氏の思想に由来するという。田中氏によれば、「象徴主義とは、「瞬間の中に永久を観ようとする」こと」であり、杏村自身も「「一を以って多を表現しようとする」立場、さらに「多を一々に尽くす仮無限を取らず、一に於いて全き多を捕まえる真無限につく」立場、さらに「主に於いて客を見、客に於いて主を見る」立場」などと表現をしている(p107)。こうした見方自体は、清水氏も言う通り、そのままでは「独断的で恣意的な世界像」に過ぎないが、「象徴の哲学」が目指しているのは、「あらゆる認識が象徴主義に収束せざるを得ないこと、象徴主義こそ認識の本来的な姿であることを明らかにする試み」であったと清水氏は言う(p108)

清水氏は杏村の象徴主義の思想詩的な位置づけとして、神秘主義(mysticism)の一類型であると喝破する。その内容的な特徴として、清水氏は、次の2点の了解が存するとしている。「①真理(=事柄の真相)が本質的に「隠された」ものであり、したがって、「隠された」真理(=事柄の真相)は何らかの仕方であらわにされねばならぬという了解、②しかし、単なる合理的―述語的に表現すれば「悟性的」-な思考で真理(=事柄の真相)を明らかにすることはできないという了解」(p112)。

清水氏は、プロティノス、ヘーゲル、ライプニッツといった思想家を引き合いに出しながら、杏村の象徴主義が「精神史の広大な文脈を背景とするもの」であることを解き明かす。特に モナドロジー を唱えたライプニッツとの関係について、「土田とライプニッツは、「華厳経」という中間項によって媒介されている」(p120)との指摘があり、融通無碍ともいえる杏村の思想的営為を印象づけている。

さらに 「象徴主義こそ認識の本来的な姿である 」とする杏村の論は、フッサールの現象学とも関連性があり、実際「「象徴の哲学」では、フッサールに由来する概念がいくつも使われて」(p124)おり、清水氏はさらに現象学と杏村の象徴主義の関係について論究する。同時代的な思想の最先端とも切り結ぶ形で、杏村の思想形成が為されていたことがわかる。

杏村は、このように象徴主義の名のもとに、「多元的な神秘主義的な見解」を主張したわけだが、さらにこの見解を前提としながら、1920年代の日本において、新カント主義の影響を受け、これを批判的に受容しながら多くの知識人によって唱えられた「文化主義」を唱えていくことになる。清水氏は、ヴィンデルバントやリッカートなど新カント主義の特色と日本での受容の状況についれ、第4章で簡潔にわかりやすく、この本で説明しており、ぼくのような門外漢にとっては、大変にありがたい。

さて、それではなぜ杏村は忘れ去られてしまったのか。清水氏も指摘しているように、杏村の文章が「平均的な読者にとってはわかりやすいものであった」のに対して、杏村の思想は、決してわかりやすいものではなかったことが関係しているかもしれない(p224)。杏村は一貫して、大学に所属することなく、言論ジャーナリズムの世界に身を置いた。ジャーナリズムの世界に身を置いたがゆえに、本来重厚な思想が、わかりやすい文章の背後に隠され、アカデミズムの側からの検討がなされぬまま、時を経てしまったということなのではないだろうか。

以前、三木清全集を読んでいて、三木がアカデミズム向けに書いた哲学論文が所収されていて、その難解極まりない書きぶりに辟易し、もしかしたら、難解な書きぶりでなければ、アカデミズムでは評価されないのか?と思ったことがあるが、仮に土田杏村も、三木清のようにアカデミズムとジャーナリズム双方に足場を置いた活動ができていたら、その後の読まれ方や検討のされ方も変わったのではないだろうか。

さらに言えば、前述のとおり、杏村は全集も刊行されているが、この全集、彼の残した膨大な文章の多くが遺漏されているのはまだしも、彼の主著とも言える「象徴の哲学」が所収されていない。全集の編纂にあたった哲学者務台理作氏がなぜそのような判断に至ったのか、理由はわからないが、務台氏の判断に対しては批判もあり(p87-89)、杏村が忘れ去られることになった一因となっていることは間違いなさそうである。