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キュレーション

キュレーションと編集

 佐々木俊尚氏の「キュレーションの時代」(ちくま新書・2011)を読み返している。10年ほど前の本であるが、ひとつの時代の訪れを伝える役割を担った本であったと思う。紹介されているテクノロジーやサービスの情報は古びてしまっているが、この本が示した基本的な構図はさほど変わっていないと思う。

 まずキュレーション(Curation)とは、「無数の情報の海の中から、自分の価値観や世界観に基いて情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え、そして多くの人と共有すること。」との定義が与えられている。

 率直に言って「編集」という概念と重なる部分が多い。ちなみに編集とは、「新聞,出版,放送,通信など一般にジャーナリズムの世界において,一定の志向性をもって情報を収集,整理,構成し,一定の形態にまとめあげる過程、またその行動や技術をいう」(ブリタニカ国際大百科事典)とされている。

 キュレーションの定義における「自分の価値観や世界観に基いて情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え」という箇所と、編集の「一定の志向性をもって情報を収集,整理,構成し,一定の形態にまとめあげる過程」というのは、ほぼ同様のことを指していると言えるだろう。ぼくなりに整理していえば、キュレーションも編集も、情報の整理・加工という、その従事者にとって力の見せ所ともいえる知的活動においては、基本的な差異はない。

「見いだす人」の創造的な役割

 「キュレーションの時代」は、放浪の末、70才を超えてから絵を描き始めたジョゼフ・ヨアキムという人物の物語から始まる。ヨアキムは晩年、画家として認められ、死後にはホイットニー美術館で遺作展が開催されるまでになるが、それが実現したのは、ジョン・ホップグッドという人物が偶然ヨアキムの絵を見たことに始まる。佐々木氏はこのエピソードをもとに「これからの世界は」「つくる人」と「見いだす人」がお互いに認め合いながら、ひとつの場を一緒につくるようにして共同作業をしていく」(p21)という見立てを述べる。

 佐々木氏の指摘するとおり、現代の創造的な営為においては、「見いだす人」が単なる享受者に留まらず「共同制作者」といえるほど、その果たすべき役割や意義が増大している。そして「見いだす人」というのは、佐々木氏の言う所のキュレーションを行う人物のみならず、編集者も含むに違いない。今の時代は、「キュレーションの時代」であると同時に「編集の時代」とも言えるのである。この点は、編集という活動の創造性に光をあて続けてきた松岡正剛氏の営為によって、既に示されて来たことである。いずれにしても「つくる人」の重要性に加えて、「見いだす人」の果たす役割の重要性の増加という事態は、現代社会における創造性を考える際には、極めて重要な視点である。

 付言しておけば、アートの世界ではキュレーターの存在感が増しているが、芸術家がコンテンツをつくるとすれ人ば、キュレーターは、コンテキストをつくる人と言えるだろう(p215-219)。アートとは何かという根源的な問いに向き合うことが作品制作そのものと言えるようなアートの現状においては、コンテンツと同様にコンテキストの創造が重要になっている。このことがキュレーターの存在感増加と深く関連しているであろう。

インターネット時代における情報の流通

 佐々木氏の述べる「キュレーション」と「編集」との間に違いがあるとすれば、編集が新聞や出版など旧来の紙媒体メディアの世界を主たる舞台とするのに対して、キュレーションの場合は、「無数の情報の海」即ちウェブを想定している点にあるだろう。情報の流れとの関連で言えば、両者の相違点は情報の収集と発信のフェイズにあると言える。

 前掲の「編集」の定義にみられるように、新聞にしろ出版にしろ、編集が想定している主たる場は、一言で言えばマスコミュニケーションであり、情報の送信者と受信者の分離を前提としている。それに対して、「キュレーションの時代」が前提としている情報を巡る環境は全く異なる。

 佐々木氏は「情報が共有される圏域がインターネットによってどんどん細分化され、そうした圏域を俯瞰して特定するのが非常に難しくなってきている」(p43)として、旧来の「メディア空間」とインターネットの差異を述べる。インターネットの時代に入り、佐々木氏は「ある情報を求めている人が、いったいどの場所に存在しているのか。そこにどうやって情報を放り込むのか。そして、その情報にどうやって感銘を受けてもらうのか。」といった課題にいかに応えるかが重要となっていると言う。「キュレーションの時代」という本を簡潔に紹介するとすれば、インターネット時代における情報の収集・加工・発信のあり方を問う本、とでも言うべきか。

如何にしてビオトープにたどりつくべきか

 佐々木氏は、「情報を求める人が存在している場所」をビオトープと名付ける(p42)。インターネット等を介して情報を発信する者にとっては、このビオトープに如何にしてたどり着くかが課題となる。佐々木氏は、第4章で、逆に情報の享受者の視点で「情報のノイズの海」とも言える状況から、如何にして良い情報にたどり着くかという課題に対して、一つの回答を呈示している。佐々木氏は言う、「だれかの視座にチェックインすることによって、私たちは情報のノイズの海から的確に情報を拾い上げることができる。」(p202)と。簡単に言えば、よい視座を持った人を介在させて、その人を通じて情報を得るのである。インフォ―マントともいうべき個人の重要性が増すというのである。この指摘は、一見すると単純極まりないものに見えるが、極めて重要な指摘だと思う。

 マスコミの時代には、私たちは、情報を発信する新聞やテレビを信じるほかなかったが、あらゆる者が情報を発信する現在においては、視座を提供する個人が情報の選択において影響力を持つというのである。視座とは「 コンテキストを付与する人々の行為」であり、「私たちはその<視座=人>にチェックインすることによって、その人のコンテキストという窓から世界を見る」(p204)のである。そして、キュレーションを行う人であるキュレーターこそが、正にその視座をつくり、提供する人なのである。

 さらに佐々木氏は、鯖江の田中さんという眼鏡屋の印象的なエピソードを挙げながら、「2010年代の消費の本質」を<商品の機能+人と人のつながり>と喝破し、情報の流通においても、<情報の収集+人と人のつながり>が重要とする。「そこには共鳴と共感を生み出すためのコンテキストの空間が絶対不可欠」であり、「そこには「人」が介在する必要がある」と言う。この箇所がこの本の核心だとぼくは想う。そして、これが、ビオトープに如何にしてたどり着くかという情報発信者にとっての課題への回答にもなっているだろう。

 ぼくなりに敷衍して言えば、ウェブ上での情報発信において、ビオトープに如何にしてたどり着くかという課題への回答は次のとおりと思う。それはビオトープに「だどり着く」方法というよりは、人々を引き寄せて自らビオトープを生み出すための留意点ということになる。①まずは、自らの収集した情報に対して、魅力的なコンテキストを見出して加工することが重要であり、そのうえで、②発信する情報が、発信者たるキュレーターの人格的な表現となっていることが大切となる。そのためには、どのような個人が情報を発信しているのか、個人的な感慨やエピソードも交えることが、思いの外、重要性を持ちそうである。それにはリスクを伴うが、情報の発信には常に責任が伴うのであって、個人の情報をある程度開示することは、責任の所在を明確化し、結果的に「共鳴」「共感」の礎となる信頼の醸成につながるので、無視できないと思う。