宮沢賢治は自らの作品を詩とは呼ばず、「心象スケッチ」と呼んだ。瀧口修造も同様に自身の作品を詩ではなく「詩的実験」とした。ぼくに言わせれば、この両名の遺したものこそ真の詩である。真の詩が、作者によって、詩とは名指されなかった事実。ここに詩という表現の本質を考える契機が存すると思う。
詩とは何か。いろいろぼくなりに考えてみたが、詩とは、作者も含め、誰かによって「詩である」と名指された言語表現のことではないだろうか。つまり誰か一人でもそれを詩であると思えば、それが詩なのだということになる。もちろんそのなかには、多くの人によって評価される傑作といえるようなものも、作者一人だけが詩だと思っているにすぎないものまで、全部含まれるわけだが。
詩とは見出され、名指されることで、存在するに至る。詩とは遂にはそのようなものとしてしか存在し得ないのではなかろうか。それまでは、得体の知れぬものと言っても過言ではない。
作者自身が、自作を詩であると名指すのは容易である。当然のことながら、作者自身が自らの書いたものを詩と名指してもよいわけだが、敢えて名指すことを控え、未知の読み手にそれを委ねることも可能である。詩はコミュニケーションの一形態であり、他者への必死の跳躍であると捉えることもできる。そう考えると、宮沢賢治や瀧口修造が自らの創作に詩以外の名を与えたのは、ある意味では、とても理に適ったことと思える。詩をめぐる倫理をどう考えるか、詩の倫理という問題がそこにはある。