大橋洋一氏の「新文学入門 T.イーグルトン『文学とは何か』を読む」(岩波書店)より、ポール・ド・マンの批評に関して指摘した箇所を引用させていただく。
「テクストの文法面は、テクストのレトリック面につねに裏切られ、意味の生成を阻まれる。意味をもたらす洞察には、つねに盲点が存在し、洞察そのものの完結性は常に先送りされる。これをさまざまなテクストについての綿密な読解を通して立証するド・マン的方法は、最終的にテクストが両義的な意味のなかで引き裂かれ、これぞテクストの意味ではないかというものはどこにもないことを明らかにするものでした。」
文学作品に関して、一義的な意味を求めるのは、ナンセンスとまでは言わないにしても、文学作品の真の享受のあり方から考えれば弊害があると常々ぼくは想っている。文学作品とは、ド・マンが明らかにしているとおり、そもそも多義的なものであり、それゆえに想像力を刺激し得るのであって、文学を想像力の場と捉えるぼくにとって、多義的であることが文学作品の必須条件であると言っても過言ではない。高校までの国語の試験では、一義的な作者の意図なるものの存在が前提とされていたが、それは本来の文学鑑賞力とは別の能力を計るものであり、想像力の養成という観点から言えば、百害あって一利なしであると考える。
次に「美のイデオロギー」においてイーグルトンが指摘している芸術の自律性の起源に関する箇所。
芸術は、「19世紀後半といってもいいかもしれないが、哲学的なもの、倫理的なもの、道徳的なもの、政治的なものから自律したものとなる。けれどもこのように自律的になった筋道は、逆説的であって、芸術は奇妙なことに、資本主義的生産様式に統合されることによって、はじめて自律的となったのである。」
「資本主義的生産様式に統合されること」で自律的となった芸術とは、商品としての芸術作品が発生したということであろう。例えば、長らく絵画は、宗教と密接に関わっていたし、王侯貴族の要請に応えるものであった。顧客の依頼に応じて制作されるものから、芸術作品においてもマーケットが成立し、そこで自由な交易が行われる状況が発生することで、「逆説的」「奇妙なこと」ではあるが、画家が自発的に表現するという意味において「自律的な」芸術が生まれたというのである。これは興味深い指摘であると思う。