読書の悦楽は逸脱にある。
悦楽の読書は、目的地がはっきりしない気ままな旅のようなものだ。
学生時代、試験の前になると、やたらに(試験と関係のない)読書がしたくなる性癖があった。目標から、どこまでもずれて離れていこうとする、あの遠心的な精神作用こそが、読書の原動力のような気がする。逃避欲求ともいうべきか。とても不健全な気もするが、その不健全な欲求のおかげで、ずいぶん多くの本を読んだ。
やっかいなのは、試験が終わってしまうと、不思議なくらい読書欲が消えてしまうことだ。何か切実なものが内面にないと、読書しようとは思わないらしい。だから、本ばかり読んでいるということは、何か確実に内面に抱えている証しだと思う。試験と読書欲の関係でいえば、さすがに大人になった現在では、試験の前には、きちんと試験の勉強をするだけの分別もついたが、その代わり、試験のおかげで読書欲が喚起されることもなくなってしまった。試験というものが、若い頃ほどの切実さを僕に与えなくなったのだとも言えるだろう。それでも、僕が若い頃以上に本を読んでいるということは、若い頃以上に、僕が切実なものを内面に抱えているということに違いない。
解決すべき課題や問題が目の前にある。それは解決されなければならない。その解決策を探す目的をもって、手段的に為される読書がある。そこにも確かに楽しさはある。探索することの楽しさがある。しかしそれは、悦楽とまでは言い難い。本当の悦楽は、課題や問題に向き合うのではなく、むしろそれに背を向けて、あらぬほうに駆けだすような読書によってこそ齎される。
そして不思議なことだが、そうやって逃げ出そうとしても、僕らは逃げ切ることができない。どんなに逃れようとしても、読書のさなかで、僕らは、当初の課題や問題と出会い直してしまう。課題と出会い直す瞬間、それは、読書する前の自分と、読書した後の自分が出会う瞬間でもある。読書によって、リフレッシュされたり、何等かの知識がついたりして、読書する前の自分と少し違う部分ができているはずだ。その一方で、何等変わらない、どうしようもない自分もいるはずだ。
結果として読書によって得た知識や、読書による気分転換で、問題が意外なほど簡単に解決できる場合もあるだろう。逆に、全く歯が立たないままのこともあるだろう。手段的な読書でないのだから、結果がどうなるかはわからない。やむを得ないことだ。そして、それでいいではないか、切実なものから逃走する際のスリリングさ、そこから生まれる悦楽、それだけは確実に得ることができたはずだから。
読書とは、自分を更新し、自分らしさと出会う旅なのだ。