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詩の読みについて

大岡信氏の「詩とことば」(花神社)を読んだ。日本の詩歌にとって大岡信氏は、本当に大きな存在で、その視野の広さと理解の深さは、当代では他に例をみない。 詩歌という 表現ジャンル は、ともすると享受者によって捉え方が大きく異なり得るものであるが、大岡氏の批評は、その不定形な混沌に確固とした一定の妥当な理解の土俵を生み出した。氏の逝去による喪失の大きさは計り知れない。

その大岡氏が詩のことばは、不可避的に「場合によって非常に違う読み方をされることもある」(p20)と言う。その理由を述べるに際して、大岡氏はドイツロマン派を代表する詩人であるノヴァーリスの残した断章から、「すべての見えるものは見えないものに、聞こえるものは聞こえないものに、感じられるものは感じられないものに付着している。おそらく、考えられるものは考えられないものに付着しているのだろう」ということばを引用する。

大岡氏によれば、ノヴァーリスのこのことばは、「そのまま詩のことばについて言ったものとして敷衍することができる」という。この断章のことばに言寄せて、大岡氏は詩をつくるという営みについて次のように語る。

詩は「見えないもの、聞こえないもの、感じられないもの、考えられないものに触っているのではないか」「言ってみれば、そうやって見えないもの、聞こえないもの、感じられないもの、考えられないものを、向こう側にむけてどこまでおし拡げうるかということが詩人ひとりひとりのやっていること」であり、「押し拡げれば押し拡げるほど、触れえないもの、聞こえないものの領域がさらに拡が」り、「そこが不思議なところ」である(p21)。

ぼく自身、詩を書くものとして大岡氏のことばに触れ、非常にうまい、適切な言い方だと思う。ぼくなりの言い方で言えば、詩においては、書かれた言葉と同様に、あるいはそれ以上に、書かれなかったことが重要である。ぼくの言う「書かれなかったこと」というのが、正に大岡氏やノヴァーリスの言うところの「 見えないもの、聞こえないもの、感じられないもの、考えられないもの 」である。それはどこに宿るのかといえば、詩のことばが刻まれた詩集の紙面に即し、あえて可視化していうならば、詩集の紙面の余白である、と言ってもいいだろう。なぜ詩集にはあんなに余白があるのか、なんと紙を無駄にすることか、という印象を抱く人も、あるいはいるかもしれないが、余白は無駄なのではない。ありていに言えば、そこには、書かれなかったことが暗示されているのであり、詩人がことばを書くことで、書かれていない「向こう側にむけて」「押し拡げ」たものを読者は想像力によって味わうことになる。余白を読むことにこそ詩を読むことの醍醐味がある。

大岡氏はさらに次のように述べる。「詩作品というものは、それが触っていることがはっきり伝わる部分と、よくわからないけれど何か不思議なものに触っていることだけは感じられる、その向こう側の領域とのあわいに、スッと置かれている非常に不安定な創造物という気がするんです。」(p21)

「スッと置かれている非常に不安定な創造物」という表現。なんと繊細な。詩作品はそういうものなので、だからこそ「作者は一所懸命ことばを彫琢しているんですが、読み手によって違う読み方をされる可能性があるのは当然ということにもなる」(p21)と大岡氏は言う。

それでは、「読み手によって違う読み方をされる可能性がある」ということは、詩にとってよいことなのか、そうではないのか。大岡氏は、 ある論者の 山村慕鳥の短詩に対する評論を例に挙げ、その読みについて「やはり違うんじゃないかと思うんです」(p25)と述べ、解釈に幅はあるにしても、妥当な解釈とそうでないものがやはり分けられ、後者は排除されるべきという立場であるように思う。それは正論であって、ある詩作品の鑑賞・解釈の在り方という点でいえば、ぼくも全く異論はない。最初にも述べたように、詩歌の鑑賞や解釈における「 不定形な混沌に確固とした一定の妥当な理解の土俵を生み出した 」のが大岡氏の業績であり、その功績は計り知れない。

しかし、その一方で、あえて誤読の有する意義や可能性について触れておきたい。明らかな誤読も根絶されるべき悪というわけではなく、誤読にも意味があるとぼくは思う。他者の作品に触発されて新たな作品を生み出すという、創作という局面では、むしろ読み違えや誤読が意味を持つことも少なくない。だから誤読を排斥するのではなく、むしろ誤読する自由がぼくらにはあり、誤読の自由こそが創作の母であると言い切ってみたい誘惑にかられる。