「作家とその影」(ガエタン・ピコン)を読んだ。
批評家ガエタン・ピコンは、ボードレールからブルトンに至るフランスの「近代詩の歴史は、そのまま表現のための言語を創造のための言語に置き換える歴史である」という。「表現のための言語」とは、対象の描写による模倣であるところのミメーシスのための言語を指すであろう。それでは「創造のための言語」とはどういうものであろうか。
彼は続けて次のように言う。「言い換えれば、既成の現実にはもはや依存しないで―この現実は、感情とか理性とか逸話とか、あるいは知覚の世界とか呼ばれるものであるが―新しい現実を生み出す詩的創造行為であると同時に、新しい言語を生み出す詩的創造行為となるような詩が到来する歴史なのだ。それというのも、今や言語は、言語ではもはや表現できない世界を生み出さなければならぬからなのである」。「創造」とは、現実を模倣するのではなく、「言語ではもはや表現できない世界」である「新しい現実」を生み出すことであり、「創造のための言語」とはそのための「新しい言語」ということになるであろう。
このような「表現から創造へ」とでも言うべき変化は、小説においても同様にみられると彼は言う。「近代小説の様式も、小説を客観的な現実像とか、心のなかのヴィジョンの反映などとは別のものへもってゆこうとする試みのように思われる。つまり、それは、現実との絆を一度断ったからこそはじめて我々を現実に復元して見せる独自な一世界であり、現実世界の表現というよりは、言語そのものの創造のように思われるのである」。「現実との絆を一度断ったからこそはじめて我々を現実に復元して見せる独自な一世界」という表現は興味深い。現実と一旦は手を切ることで、逆説的に現実と再び出遭うことをが可能になるという事態。それは、言語そのものの根源を問うことによって実現するのであろう。
さらに彼は、詩や小説における「近代の作品」の特質について次のように言う。「古典主義からロマン主義にいたるまで、作品は、現実の世界からその秩序を汲みとっており、そして作品のもついろいろな形式は、現実からとったこの秩序を様式化して表現するための手段にすぎなかった。ところが、近代の作品は、作品のなかに含まれる実在性をすべてその表現機能そのものからひきだしているのである」。最後の一文は少しわかりにくい。実在性という語を例えば、リアリティに置き換えてみたらどうだろうか。近代の作品の生み出すリアリティの基盤は、現実世界そのものにあるのではなく、作品自体、すなわち作品を形成している言語の表現機能それ自体にあるということであろう。
ぼくなりの解釈で敷衍してみるならば、言葉が描写のための道具・手段という立場をわきまえ、その役割を果たすのではなく、近代の作品においては、言葉そのものが目的となって、言語自体が主体となってイニシアティブをとり、未知を創造するというのであろう。問題はリアリティである。言語が現実を模倣すること放棄し、言語がいわば自律的にふるまうことで生み出された作品もリアリティを孕むというのである。その基盤はどこにあるかといえば、ガエタン・ピコンは言語が備えている「表現機能」というのだ。
それはどういうことか。言語というものは、永年にわたって使用され続けることで、民族の歴史が生み出す集団的な記憶の厚みを蓄積させているのであって、その言語を使用する個人にとっても、これまでの人生の経験の記憶が言葉という場に蓄積している。そうした集団的・個人的な記憶に支えられることで、言語の表現機能がリアリティを生み出すのだ。そういうことではないだろうか。
さらに付言すれば、リアリティといっても、近代の作品におけるリアリティは、現実の模倣によって生み出されるリアリティとは異質なものであり、想像力がより強く創造的に介入して生み出されるリアリティであろう。
(以上引用箇所は「作家とその影」P156~157)