マルティン・ブラウエン「図説 曼荼羅大全 チベット仏教の神秘」(東洋書林)を読んだ。この本の中に「空」についての記述があったので、紹介させていただく。
「空」というと、何も実在がないこと、即ち「無」を意味すると考えてしまいがちであるが、そうではない。 「空」とは実在なのである。この本では、「空」の実在性を解説するために中観帰謬論証派における空性の定義を紹介している。該当箇所の記述を僕なりに敷衍して言えば次のようになる。中観帰謬論証派は、我々が普段認識している現象について「それ自身の本来的あるいは客観的な存在を有しない」(p36)とするが、それは現象を非実在として捉えるわけではない。現象を現象として認識するためには前提として視点が必要となるが、その視点の核となるべき「我」が存在しないというのが中観帰謬論証派の見解である。私たちが認識しているような現象は、存在しないが、決して無というわけではなく、そこには確かに何かが存在しているのである。その存在を「空」というのである。
「あらゆる仏教の宗派は無我という考え方では一致している」(p34)。西洋ではデカルトのコギトに代表されるように、自我を基礎として思考を展開するが、仏教では、それは実体のないものであり、色、受、想、行、識の五蘊が「相互に関係しつつ結びついて」(p34)生じているにすぎないと考える。我々は、往々にして自我が存在すると考え、その自我に囚われてしまうわけだが、仏教は、その「とらわれからの解脱」、即ち無自性の境地を目指す。 その境地に到達するための道(乗、ヤーナ)」には、「スートラすなわち波羅蜜乗(完成の道)とタントラすなわち真言乗(神秘的な言葉の道)の二つがある」という(p34)。
私たちは普段、ものを認識するが、それは「意識による差異化や分析」(p37)の結果である。差異化と分析によって「空なるものに対して内容と意味を与え」(p37)ているのであるが、無自性の境地を目指す道とは、意識による「実在の秩序化、差異化、構築(見立て)のプロセスを逆転させ」、「すべての現象の空性をはっきりと理解することを意味する」(p37)のである。
たった4ページほどのなかに大変に中身の濃いことが書かれている。この本にはチベット仏教における曼荼羅について様々な解説が為されており、大変に興味深いが、僕が特に関心を持ったのは、人間もまたそれ自体マンダラなのだという考え方である。「宇宙であるマンダラと、人体との間に」「構造的な対応関係や平行関係」があるという。その理論を展開した「カーラチャクラ・タントラ」(時間の輪のタントラ)は、「外」「内」「他」という、「相互に関係しあう三つのレベル」を説くというが、そのうちの「内」こそが人間であり、それは「外」即ち宇宙(=元素の輪、須弥山、虚空そして時間のリズムを備えた宇宙(p90))と「きわめて多くの点で一致している」という。ミクロコスモスとしての人間とでも言うべきか。
」