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真実・梶芽衣子

「真実」梶芽衣子(構成 清水まり・文藝春秋2018)を読んだ。「女囚さそり」シリーズで圧倒的な印象を残した名女優が自らの歩みを語った一冊。

恨みという語で象徴される女性の深い情念を描いた「女囚さそり」シリーズは、寺山修司の天井桟敷等に代表されるアングラ文化の香り芬々たる作品である。僕の言うアングラ文化とは、その特徴として、土俗的、情念的なものを前面に出して表現する文化であり、一言で言えば暗い。そうした特徴を有する文化が花開いたのは1960年代後半なので、「女囚さそり」もその時期の作品かと思いきや、第1作の公開が1972年。考えてみれば当たり前のことで、文化的な傾向は10年ごとにきれいに区切られるわけではないだろうから、1970年代は1960年代後半と地続きであり、アングラ文化的なものは、1970年代も命脈を保ち続けたということなのだろう。自分の記憶に基づく印象で言えば、1980年代に高校生であった僕は、そうしたアングラ文化的な文物に触れようとしても、それは既に書物の世界の出来事であった。かろうじて大学時代に早稲田祭で観た大駱駝艦のBUTOH公演が、同時代の文化としてアングラ的なものに触れた唯一と言ってもいい経験である。やはり大学時代に、テレビ放映された「女囚さそり」シリーズを観たのだが、こんなに暗い陰惨な情念を描いた映画があったことに衝撃を受けた。それとともに、主演の梶芽衣子の美しさに目を奪われた。

「女囚さそり」の梶芽衣子の美しさは一言で言えば尋常ではない。凛とした佇まいなのだが、人間離れしている。「真実」を読んでそのような印象を生み出している原因がわかった。梶芽衣子演じる松島ナミは話さないのだ。この作品の台本を初めて渡されたときのことを梶芽衣子は次のように述べる。「(台本を)読んでみたら想像通り。タメ口羅列の女囚同士の喧嘩だらけで、安っぽいエログロ作品になりそうな内容でした。これはとても自分にはできない。けれど原作の漫画も読んでみて「アッ!」と気づいたことがありました。ヒロインがまったく言葉を発しなかったら面白くなるんじゃないかと」(p40)そう思った梶芽衣子は、監督にセリフなしの提案をする。確かに、どろどろとした、どぎつい描写が多い映画だが、その中にあって、松島ミナが無言を貫くことで、映像世界に得も言われぬ緊張感がはりつめ、醜い世界のなかにあって、言葉で表現できない松島ミナの情念が際立ち、むしろ世界の醜さが松島ミナの美しさを一層際立たせることになる。無言を貫くという梶芽衣子の選択が、この映画をエログロ作品に堕することを防ぎ、途轍もなくスタイリッシュな作品としたと言えるだろう。梶芽衣子は一流の女優である。

この本には、勝新太郎や高倉健など、日本映画を築いてきた名優たちのエピソードにも触れられており、その意味でも貴重な証言と言える。一つ面白かったのは、勝新太郎の歌に関する話。梶芽衣子が勝に自身のレコードを渡した際、それを聴いた勝が梶の歌を誉めたうえで、「やるなら役者の歌でいけよ」(p86)と言ったという。それはどういう意味か。梶芽衣子は勝が歌っている映像を見た際にその意味がわかったと言う。「番組のなかの勝さんはものすごく自由でした。感情が動かされるままに伸ばしたときは伸ばして歌っていらして、演奏は譜面どおりにどんどん進んでいるのにそんなのは知ったことじゃないという感じなのです。だけど終わる時はちゃんと合っている。」(p87)それこそが勝の言っていた「役者の歌」なのだと梶は思ったと言う。そして「間」というkeywordを使って次のように分析する。「芝居は演技をしている役者の間でやりますが、歌には音符という間がありますからそこに自分をはめ込まなければならない。そこが歌で一番難しいところなのですが、勝さんの場合は完全に勝さんの間で、勝さんにしか表現できないものにしてしまっているのです。」(p87)

現在70歳だという、この名女優。この本の終わりに「70歳からのリスタート」という言葉がある。この本には、一人の女性としての生きざまと、俳優としての経験が描かれている。それに触れた今、「70歳からのリスタート」という言葉に大きな期待を感じる。梶芽衣子にしかできない70代、80代の女優としての表現があるに違いない。一ファンとして、それを楽しみにしたい。