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文学が脅かされている

構造主義的文学批評で有名なツヴェタン・トドロフによる文学論、「文学が脅かされている」(叢書・ウニベルシタス)を読んだ。

彼は、「文学は私が生きるのを手助けしてくれえる」と語る。「文学はわれわれの世界を拡げ、世界についてそれまでとは異なった仕方で概念を構成し、異なった仕方で世界を組織する方法を想像するように促す」(p9)。

トドロフは、米国の哲学者ローティーが述べる文学論も引用しながら次のように述べる。ローティーによれば「小説の読書は、科学的、哲学的、政治的著作の読書とは異なっており、まったく違った型の経験により近いものである」という。「その経験とは自分以外の個人との出会いである。新たな登場人物を知るのは、それまで知らなかった新たな人間を知るようなものである。」「小説を読む場合には、わわわれは登場人物たちをただちにその内部から知ることができ」る。そして「その登場人物がわれわれに似ていることが少なければ少ないほど、彼はわれわれの地平を拡げてくれ、したがってわれわれの世界を豊かにしてくれる」。ローティーは、文学が「自己中心主義」から我々を癒してくれるという。(以上、p61)

トドロフは、若き日にブルガリアから、「文体、構成、語りの形式といった」文学技法について学ぼうとパリに留学し、紆余曲折のすえ、ジェラール・ジュネットと出会い、さらにロラン・バルトと邂逅し、以後、フランスにとどまり、「作品を構成する諸要素相互の関係の研究を促進」した。

彼らの研究は、その方法論も含め、大変に大きな影響力をもつことになる。フランスにおける文学研究もその影響を強く受け、「文学作品を言語による自足的で絶対的な構築物」とみなし、それを分析する手法の学習が中心となってしまった。トドロフは本書において、その状況を「文学の矮小化」として強く非難しながら、文学の本質的な意義を述べるのである。

確かに文学研究においてはテキスト分析も重要であるが、文学の本来的な意義は読者のなかで起きる経験にこそ現れるだろう。その経験を全く忘却して、分析のための分析がテキストに対して為される状態は、トドロフのいうとおり、確かに健全ではないだろう。しかもこの指摘が、構造主義的文学批評の代表者であり精緻なテキスト分析を追求したトドロフによって為されたことに意外さを感じるとともに、非常に重い意味を持つ指摘であると思う。