稲葉真弓「選詩集 さようなら は、やめときましょう」(響文社)を読んだ。
京都の本屋に置かれていた一冊を何気なくとって、開いたページに連なる活字に導かれるようにして購入した。著者の稲葉真弓氏については、寡聞にして知らなかった。ただ書店で少し立ち読みしてみて、大変に言葉に力のある詩人であり、変にアクロバティックな詩的実験にも走らず、読めばきちんと得るものがある詩集であることが伺えたので、迷わずに購入した。
残念ながら著者の稲葉氏は既に物故されており、生前の5冊の詩集から選ばれた作品が集められている。僕が特に心を惹かれたのは、「連作・志摩 ひかりの旅」という詩集からの作品群。
「ほんとうに生きたのは/たった一日だったかもしれない」という、印象的なフレーズで始まる「金色の午後のこと」。だらしなく怠惰な午睡の想い出は誰にでもあるが、例えば、命の終わりが近づいたとき、その午睡の、のんきな贅沢さを思い返すとき、確かに稲葉さんのように、僕も思うに違いない。詩を読んで得る共感は、いつでも深い。
また、さすが小説で数々の受賞をされていた方だけあって、言葉による描写力が素晴らしい。事実を描くだけではなく、想像力に触れてきたものまできちんと描写し尽くす力。例えば、セイタカアワダチソウの舳先から飛び立った小鳥の描写。「もうノビキタはいないのに/そこにありありと/一羽の鳥の形をしたものが刻まれて/飛翔はほどけた糸のちらばりのようだった」(「渡りのものへ」より)。
僕の場合、よい詩作品を読んだあとは、得も言われぬ内的感覚のひろがり(文学空間とでもいうべきか)にひたされる。その内的感覚をポエジーといってもいいのだが、この作品群ではその感覚のひろがりが顕著であった。おそらく著者が住むことを選んだ志摩半島という土地のアトマスフェアが詩の言葉によって捉えられているからだろう。読者である私は、知らず知らずのうちに、志摩半島に想像的な空間移動を果たしているのだ。詩人は、土地から受けた力を得ながら言葉を紡ぐとき、もっとも力のある言葉を開示できるのかもしれない。