戸矢学氏の「縄文の神が息づく一宮の秘密」(方丈社)を読んだ。
一宮(いちのみや)とは、「律令制の一つの国ごとに最上位の神を第一の宮と呼称したもの」であり、「自然発生的に各地方で唱えられたもの」(p8)である。
国の数は、天長一年(824)以降、畿内七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)の68か国であり、律令制時代の法制書である延喜式においては、「それぞれの国力に応じて「大国」「上国」「中国」「下国」の四等級に分類」されていた。また神社に関する公的なリストとして「延喜式神名帳」が存在し、そこに記載された神社を「式内社」と呼び、その数は全国で2861社を数え、「そのうち明神大社(とくに霊験あらたかとされる神)とされるものは、224社」であった。戸矢氏は、一宮のうち、「下国以外において一宮であり、名神大社・大社であった神」という基準で択んだ四八社を「根源社」と名付け、この本で解説している。
神社では「二礼二拍手一礼」という定められた拝礼方式に従ってお参りするが、そんなとき手をあわせながら、古来からの伝統の重みを感じていた。しかし、その拝礼方式は、決して古来より守り続けられ続けた伝統のようなものではないらしい。
戸矢氏によれば、「現在私たちが承知し認識している神社信仰は、ほとんどが明治になってからのものである。明治政府によって宗教体制が新たに整備されて、新たな官国弊社制度と共に成立した。神社参拝の際の常識ともなっている「 二礼二拍手一礼」 の拝礼方式に統一されたのもこの時である。すなわち、まだ百数十年しか経っていない新しい信仰なのである。この時に全国のほとんどの神社が御神体を鏡に変更させられた。古来の御神体と共存する社もあったが、完全に変更してしまった社も少なくない。これはいわば象徴的な事件である。」(p16-17)
このように政治権力との関係で、神社信仰のありさまも変遷を遂げているが、戸矢氏は、「太古の昔から、あるがまま」の「日本人の古来信仰するもの」(p27)の在り処を根源社に求めようとする。そうしたテーマが本書のタイトル、「縄文の神が息づく一宮の秘密」に凝縮されている。例えば、天皇ご即位の際の大嘗祭は、稲の祭と考えるむきもあるが、戸矢氏は稲と粟の祭であると喝破する。稲の祭が弥生信仰であるのに対して、粟の祭は縄文信仰であり、それは稲作伝来以前から、日本にあり、いわば日本人の古来より信仰するものの原型がそこにはあると指摘する。
東京( かつての武蔵国 )の一宮は、どこか。戸矢氏は言う、「山王日枝神社でもなければ、まして神田明神でもなく、大國魂神社でもない。埼玉県さいたま市(旧・大宮市)の氷川神社である」(p75)と。氷川神社は、東京遷都直後に明治天皇が行幸し、御親祭されるなど、きわめて特別な扱いを受けているが、「研究者の興味関心をそそるような物や事、文献や考古遺物がきわめて」少なく 氷川神社に関しては満足な研究書さえほとんどない」。戸矢氏は「これほどに古い由緒があり、皇室からも重要視されていて、むしろ「何もない」ことこそが不可思議というものではないだろうか」と言う。そこから戸矢氏は稲荷山古墳に話を移し、かつての武蔵一帯に存在した国、その統治者に想いをいたす。
一宮の探究を通じて、古代日本人の信仰のありさまに触れることのできる一冊。