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二宮金次郎

童門冬二氏の「評伝二宮金次郎 心の徳を掘り起こす」を読んだ。 二宮金次郎の人生と思想に触れるのに最適な一冊。

金次郎は言う「土の中には徳が潜んでいる」と。「それを掘り起こすのがクワだ。しかしクワをふるう人間の方に徳がなければ、土の中にある徳も掘り起こせない。土が不毛で、農作物が育たないのは掘り起こす側に徳がないからだ。つまり徳のない人間がいくらクワをふるおうと、土中の徳は応えてくれない。」(p46)同じことは、人間関係についても言えるだろう。徳をもって接すれば、どんな人でも徳をもってかえすだろう。相手が失礼な振る舞いをしてくる場合などは、こちらが、相手の徳を掘り起こせていないとも言える。

江戸時代には数度の不況があり、その度に幕府のよる改革が為されたが、金次郎が活躍した時代は、天保の改革の時期にあたる。天保の改革を推進した老中水野忠邦の前任の老中であった大久保忠真は、小田原藩の名君であったが、金次郎はその小田原藩の農民であった。そして、その忠邦が藩の財政を立て直すために金次郎を重んじた。

金次郎の財政立て直しの方策は「報徳仕法」というものである。これは次の3つを重んじる。
1.分度を立てる(倹)
2.勤労する(勤)
3.余ったものを推譲する(譲)

分度を立てるとは、「分に応じた生活設計をする、入るをはかって出ずるを制する」ということである。即ち倹約することである。そしてすべての人間が働くことが必要だと説いた。その際、金次郎は、国の大本たる農を重んじた。金次郎は観察や実体験に基づき、自らの思想を練り上げた人だが、農の在り方を通じて鋭い指摘をしている。

「二宮翁は言われた。事物の根元は、必ず卑しいものである。卑しいからといって根元を軽視することはまちがっている。例えば、家屋は土台があって後に、床も書院もあるようなものだ。」社会において根元・大本を為す職業とは、「世間の者すべてが一同にこれを行って支障のない職業」であると金次郎はいう。「役員は尊い地位であっても、全国民すべて役人となったならば、どうであろうか。」しかし「全国の人民すべて農民となっても支障なく立ち行くことができる。」のであって、農業こそが国の大本なのである。そして「農民は国の大本であるために賤しい」(p324~325)のだと金次郎は言う。

この指摘には、とても驚いた。大本にあるのだから尊いとなりそうなものだが、そうではなく、むしろ卑しいとされてしまう。この逆転ともいえる価値づけの在り方は、かなり根本的で重要な指摘だと思う。必要不可欠のものだが、それが行き渡り、ありふれたものとなると一挙に価値が無くなってしまう。これは、現代において生活必需品等でみられるコモディティ化現象とも通ずる事態だと思う。ありふれたものよりも希少性のあるもの、必要不可欠のものより、必要でないものの方が高く評価されるという状況。金次郎の指摘は、人間社会の価値体系の在り方を問う、普遍的な深さと鋭さを有している。

さらに金次郎は、余ったものを推譲することを勧めた。推譲とは「自分の余ったものを押しだすことによって、向こう側もその徳に応えようとする。」(p79)ことだという。これについては、金次郎は「風呂の湯」という卓抜した比喩を用いて説明する。即ち「風呂に入っていて、ぬるいので湯を沸かし続ける。熱い湯が入ってくる。しかしその熱い湯は、こっちに招き寄せてもやって来ない。逆に、自分を包んでいる湯を向こうへ押しやると、代わりに熱い湯がやって来る。」(p78)。とてもイメージしやすい話だ。招き寄せようとして必死になっても欲しいものは来ない。むしろ逆に、手元にあるものを差し出すことによって、欲しいものがやってくるというわけだ。

これも非常に大切な指摘だと思う。まずは与え、後に恩恵を受けるというわけだが、他人への信頼がなければ、こういう順序で物事を運ぶことはできない。隣近所皆知りあいという村的なコミュニティでは、こうしたことも可能だろうが、隣に住んでいる人が誰かもわからないような大都市ではこうしたやり方は難しいだろう。ただ、最近、ネットの時代になって状況が変わってきたと思う。ネットの世界では、まずは与えるという考え方が評価される傾向がみられる。そして、与えたものに対しては、回りまわって何らかの利益が帰ってくることも多い。それは、名誉であったり、寄付金であったり、様々であろうが、何らかのフィードバックがある可能性が高い。直に他人と接しているわけではないネットの世界で、昔の村のコミュニティのような人間同士の信頼関係が、むしろ醸成されやすいというのも興味深い現象だと思う。

二宮金次郎の思想は、今を生きる私たちの生き方にも語りかける普遍性をもっていると思う。積小為大という金次郎の生活信念を自身も見習いたいと思う。