中畑正志「魂の変容 心的概念の歴史的考察」(岩波書店)を読んだ。
感情を表す語に「パトス」がある。僕の場合、パトスという語に出会ったのは、パトスとロゴスの関係について探求した哲学者、三木清の著書を通じてであった。これはギリシア語であるが、この言葉が明確に「感情という意味を獲得」したのは、アリストテレス以後のことだという。一つの言葉にも歴史がある。この本は、パトス、サブジェクト、志向性などの心的概念の歴史を探求した本であり、とても興味深い。
さてパトスであるが、ストア派においては、これが感情を示す概念として確実に成立していたという。ストア派は、パトスを「理性(ロゴス)あるいは自然本性に反した魂の動きであり、過剰な衝動」(p102)と考えた。ストア派以前では、アリストテレスが「弁論術」においてパトスを感情を示す語句として使われた箇所があるという。「もろもろのパトスとは、それが原因で人々の気持ちが変わり、判断の上に差異をもたらすようになるもので、それには苦痛や快楽がつきまとっている。たとえば、怒り、憐み、恐れ、その他この種のもの、および、これらとは反対のものがそうである。」
元来、「パトス」とは、「「はたらきや作用を受けること」を原義とする動詞「パスケイン」から派生した」語であり、「作用を受けること」「作用の受容によって成立した状態」を意味していた(p105)。「感情を<パトス>すなわち受動状態として理解」したアリストテレスの把握は、現代感情論の源流とも言えるものである。そこにおいては、「感情は「内的感覚」ではなく、知覚や思考と並んで、世界のあり方をある仕方で受容する形式」(p106)として捉えられている。
さらに山田氏は、アリストテレス以前であるプラトンの著作にも、感情の概念化の萌芽を読み解く。プラトンの「ピレボス」において、ギリシアの「悲劇喜劇の観客の心的経験」に基づき、怒り、憧れ、悲嘆、恐れ等の「われわれが感情に分類する事象が」、「快苦の混合されたもの」と分析されており、これはアリストテレスの「弁論術」における感情論を接続関係が見られるという(p108)。さらに山田氏は、プラトンの「国家」における有名な「詩人追放論」での議論を取り上げる。「詩人たちは、ミーメーシスの語りの様式を通じて、人間のきわめて多種多様な心理と行動を濾過し一定の形へと収斂させ」るが、「聴衆の魂に影響を与えるのは、そのようにして一定の様式のなかで収斂された人間の心理と行動」である。「ホメロスが、ギリシア人を教育してきた」という言葉があるが、「詩的ミーメーシスによって模倣・再現された人物の「パトスをともに経験」することを通じて」ギリシア人の非理知的なこころのはたらきは、強化されてきたのである(p118)。
山田氏はこのようにプラトンまで遡ることで、「感情というカテゴリーが」、詩作品における「語りの様式とヴィジョンという生に対する一つの見方と密接に関係すること」を示唆する。さらに感情と関係する語りの様式とヴィジョンが、「一つの見方」にすぎず、現存する「感情という概念そのもの」を「批判的に吟味すること」(p120)が可能であることまで指し示す。
自明なものと思い込んでいる感情の概念から自由になるため、新たな「語りの様式とビジョン」を探求することが、現代の表現者には求められるかもしれない。
極めて射程の広い刺激的な論考である。