スコット・ラッシュ氏の「情報批判論 情報社会における批判理論は可能か」を読んだ。訳者相田敏彦氏によるあとがきに「ウェーバーからシュッツ、パーソンズにいたるまで、工業製造社会における分析単位は『社会行為』であったが、現代の新たな情報秩序のもとでは、それはコミュニケーションである」「社会関係はコミュニケーションに取って代わられる」(p393)との指摘がある。これは非常に重要な指摘だと思う。
コミュニケーションが分析単位となったメディア社会においては、コミュニケーションの短小化に伴い、「スピードと持続の短さということが文化の軸をなす原理として支配的となる。」(p5)という。
このことは「テクノロジー的生活形式」という語で説明される。生活形式とは、「生活様式」(way of life)であり「ものごとを行うやり方」(P36)のことである。そしてテクノロジー的生活形式とは「非線形的・非連続的なネットワークによる結合を再構成する。その結合は社会的であると同時にテクニカルである。そのネットワークは有機的であると同時に無機的である。」とされる。「テクノロジー的生活形式は特定の場所が持つ特徴をどんどん失ってしまい、どこの場所でもあり得ることもしくはどこの場所でもあり得ないことになる」(p49)とも指摘される。
コミュニケーションによって受け渡しされるのは情報である。「情報が物語と違うところは、情報は、始め、中間、終わりを『今-ここ』という現在的直接性にまで圧縮してしまうことである。また、情報と言説の違いは、情報が正当化のための論証を必要とせず、命題的発話の形態をとらず、直接的コミュニケーション的暴力によって作用することである。」
こうした情報を商品化した「情報商品」は、論証などを不要とするという意味で、非合理的な商品といえるだろう。「情報社会には、一方でデザイン集約的、情報集約的な労働から成る」非常に高度に合理的な生産があり、その高度に合理的な生産が、情報商品という「最も非合理的な製品の流通、分配を生み出している」ことに特色があるという。そして、「情報社会には「『洗練化』の方向に行けば行くほど、他方で同時に『俗受け化』することが不可避的に伴うという矛盾」があると指摘される。この指摘は、現代社会における文化の在り方を考えるうえで、興味深い指摘だと思う。