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インド哲学の因果論

  島岩氏の「シャンカラ」(清水書院・人と思想)を読んだ。最終章において、著者の「生のリアリティ」を求める思想的・精神的遍歴が語られ、シャンカラに代表されるインド思想の危険性とそれを現在に活かすための留意点までが言及されている。啓蒙的な「人と思想」シリーズの一冊であるが、著者の思想的格闘の末に生み出された力作である。

 この本は第1部では、ヴェーダ聖典以来のインド思想の変遷が解説されているが、濃密な記述なので、私のような初心者は弾かれてしまいかねない。大切なことが書かれているので、注意して読むことが必要である。第1部にインド哲学の3つの因果論が述べられており、非常に興味深いので、適宜引用させていただきながら、要点をメモする。3つの因果論は以下のとおりである。

●因中有果論

「原因の中に結果がすでに存在しているとする」説。この説では、粘土からできた壺は、つくり出される以前から粘土の中に内在していたと考える。」この説を採るサーンキヤ学派は展開説という独特な世界観を唱えている。世界というものは、世界原因である根本物質の展開したものと考えるのだ。つまり世界(という結果)は、根本物質(という原因)に内在していると言うのだ。

 この展開説はとても興味深い。サーンキヤ学派は、プラクリティ(根本物質)・プルシャ(純粋精神)、即ち物質と精神の二元論に立脚している。「根本物質は、純質(知性・輝き)と激質(経験・動力)と暗質(慣性・暗黒)の三つの要素から」なっており、「この三要素が均衡状態にあるときは、世界はいまだ展開を始めていない。」「世界への展開は」その「均衡が崩れたときに起きる」のであって、「均衡が崩れる契機は、純粋精神プルシャが根本物質を見つめる視線である」とされる。そして根本物質から自我意識が芽生え、肉体が生じ、「自然界を構成する五大元素(虚空・風・火・水・地)」も展開するというのだ。

因中無果論

 「原因の中に結果がすでに存在することを否定」し、「原因と結果」は「まったく別個のもので」あり、「結果はまったく新しい存在であると考える」説。つまり「部分」「の集合」「が結果であり、結果(集合)と原因(部分)とは異なる」と考える。この説を唱えた代表的な人々がヴァイシェーカ派であり、彼らは「世界を原子からなる集合体」であるとし、「原子が集合して元素を構成する」に至る契機となるのは、「主宰神の世界創造の意志である」と考える。

●果中有因論

「これは、結果の中に存在するのは、本当は原因だけであるとする説」。粘土でつくられた壺の例にもとづいていえば、「壺も所詮は粘土であって、壺とは粘土の仮の姿にすぎない」とみるのである。これは「シャンカラを始めとする不二一元論学派」が唱えたものである。「不二一元論学派は、ブラフマンのみが実在であって、世界はブラフマンの仮現にすぎない」とする。即ち、ブラフマン=原因であり、それのみが存在するというのである。ヒンドゥー教の聖典であるヴェーダ聖典中の奥義書(ウパニシャッド)では、ブラフマン(宇宙我)とアートマン(個人我)の本質的一致(梵我一如)の思想が説かれているが、シャンカラもブラフマン即ちアートマンであるとする。

 果中有因論は、因中無果論・因中有果論との関係でいえば、両者を批判的に検討した結果として生まれたものと言える。原因と結果に質的な差を認める点では因中無果論を継承し、結果を原因の現れとする点では因中有果論の考えを継承しており、先立つ二つの因果論を一元論として統合したものと言えるだろう。

(以上引用箇所「シャンカラ」p82-88)